こんにちは、yukiです。
孤児院から這い上がり、シャネルを創業したフランスの女性デザイナーの
ココ・シャネルの人生を振り返ってみました。
「実際に どう生きたかということは 大した問題ではないのです
大切なのは どんな人生を夢見たかということだけ
なぜって 夢は その人が死んだ後も生き続けるのですから」
孤児院から這い上がり、シャネルを創業した 仏の女性デザイナー。
「ココ」は愛称で、情熱を実行すべく、お針子仕事の傍ら、歌手を志して
キャバレーで歌っていた「Ko Ko Ri Ko(コケコッコウ)」という歌の
題名にちなんでつけられたもの。
アルベールに捨てられ、孤児院や修道院で育つ。
田舎町ムーランでお針子として18歳で孤児院を出た後、
当時つきあいのあった将校たちに連れられ、グラン・カフェで歌手になりたいと
夢見るようになる
その後、歌手を目指しヴィシーでオーディションを受けるも落選ばかり。
芸能界への道はあきらめ、この頃交際していた将校であるエチエンヌ・バルサンに
伴われてパリ郊外へ移る。
自分の店を持つ
退屈しのぎで制作していた帽子のデザインがそこで認められ、バルサンの援助により、1909年、マルゼルブ大通り160番地で、帽子のアトリエを開業する
1910年に、パリのカンボン通り21番地に「シャネル・モード」という名で
帽子専門店を開店。
このときバルサンと別れ、同じ輪の中にいた、一生涯愛する人物となる
イギリス人青年実業家アーサー・カペルとの交際を始める。
カンボン通りの店の開設資金はカペルの助力によるものである。
1916年、コレクションを発表し大成功を収める。ジャージー素材を取り入れたドレスが話題となる。
1921年、本店をカンボン通り31番地に拡張。前年に会った調香師エルネスト・ボーによって生み出された、シャネル初の香水「No.5」、「No.22」を発表した。
スイスへ亡命
1939年、当時4000人を抱える大企業として成長したシャネルだったが、
コレクション前の苛烈な労働条件に、労働者側がストライキを敢行した。
ココは一部店舗を残し全てのビジネスを閉鎖、一時引退する。
ドイツ占領下でのドイツへの協力姿勢を、戦後問われ、
スイスでの亡命生活を始める。
「人生がわかるのは、逆境のときよ。」
スイスでの辛い亡命生活を送っていたときに
ココは自分に問いかけていた。
あなたは何をするために、生まれてきたの?
自分の夢を持っているじゃないの?
ココは、自分の人生は自分でしか切り開けないことを知った。
ココは、立ち直れるのか?
次回をお楽しみにしてください。
また、遊びに来てくださいね。
ココ・シャネル
