こんにちは、yukiです


きょうも、物理学者の長岡半太郎に焦点を合わせ、

彼の人生を考えてみました。


長岡半太郎(1)を未だ読んでいない方は、まずそちらを読んでから、

この続きをお読みください。



彼は、苦労して、原子核のモデル、土星型の原子モデルを提案ました。


原子モデルを考えるときに、彼はいつも仮説を立てては、

それらを壊し、また仮説を立てる作業を繰り返しました。


半太郎は、悩みながらも、


仮定がたとえ奇抜なものであっても、そこから導きだされる結論が実際の現象とよく合致する場合には、その仮定を正当なものとして認めるべきだ」


と主張します。


彼は、物理学の基礎を創った人です。


原子や更に原子を構成する素粒子は、目に見えないものなので、仮説を考えてから、実験を行い、矛盾がないかを調べます。


最近のように、測定系の技術が発達し、理論がわからないが、光より早い物質が発見されたという驚くニュースが発表れることもあります。

後に、実験上のミスであった。




そして、当時ヨーロッパで花開いたばかりの原子物理学の世界に踏み込み、冒頭の土星型原子モデルを考案したわけです。



教育者としての長岡半太郎



長岡は、反面、教育者でもあった。湯川秀樹、寺田寅彦、本田光太郎、仁科芳雄などを育てた。


後に日本の科学技術を引っ張る人々である。


大阪大学初代学長を務めた長岡半太郎は、下記の言葉にすごくこだわっていました。


教育者としての姿勢からです。



「何々になろう」とする者は多いが
「何々をしよう」とする者は少ない。



「何々になる」という目標は空疎な意味しか持ちません。



それになれた時点で目標が達成されてしまい、



もっと大切な「何をするのか」というところにたどり着かないからです。


手段が目的になっては、ダメであると。



このような教えがやがて、花を開くことになります。


1949 (昭和24 )に、日本人で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹

は、彼の弟子です。


また、長岡は、20 年以上にわたって受賞候補者の推薦をし、推薦した候補者が全て受賞したことから「ミスター100%」と呼ばれました。


それだけ、彼の確かな目をしているとともに、国際社会でもその公平さが認められていた。


彼は、湯川のノーベル賞受賞を見て、翌年亡くなった。

1950年、85歳。


yukiのブログ


(長岡の提唱した原子モデル)


彼は大学退職後も、物理・化学の研究を続け、死去したとき、物理学の本を開いたままであった。


死の直前まで、勉強していたこの姿勢は、大変尊い態度を思います。


死の直前まで、進歩しようとする姿勢を維持する努力は、

半端ではないはずです。


私も、そのような人生を送ることができれば、悔いのない人生になると思います。


皆様も、前向きの姿勢で人生を送るヒントになればと思っています。


最後まで、お読みいただきありがとうございます。




また、遊びに来てくださいね。