こんにちは、yukiです。
きょうは、物理学者の長岡半太郎の人生に注目してみました。
「何々になろう」とする者は多いが
「何々をしよう」とする者は少ない。
長岡半太郎 (物理学者)
長岡半太郎は、実は学生時代、相当苦労をし、なかなか芽のでないタイプの学生だったようです。
小学校で落第しています。
大学入学後すぐに休学
それだけでなく、長岡さんは東京帝国大学に入ったときも、大学を休学している。
理由は、「東洋人が、科学的分野において、西洋人に対抗することができるのか?」という疑問からです。
休学の間に、いろいろ東洋人が発明した天文観測器具、火薬、鉄の刀などを調べ、得られた結論は、
「これほどの研究があるからには東洋人でもこれに専念すれば終に欧米に遜色なきに至らんと確信を得るに至りました。これが私をして物理学に執着するに至らしめた根源であります。」
なにか少し変わり種の学生でした。
しかし、何かにこだわる姿勢は、何かに卓越する才能に通じていました。
この当時は、黒船が来て日本が開国し、その後少ししかたっていない。
西洋の科学技術に対抗して、こんな島国の日本で科学技術の研究ができるのか?
それが彼には、最大の疑問でした。
科学技術者のパイオニア
長岡は日本の物理学の開拓者、スタートをきった初めての人物です。
ものごとを始めるとき、初代の人間というのは何でもしなければならない。
彼は磁気、理論の計算、分光学、地球物理学、電波の伝播の計算、
そして物理学と、ありとあらゆる分野の研究をおこなった。
理論物理学の基礎を創った人です。
彼は、この後、苦労して、原子核のモデル、土星型の原子モデルを提案している。
土星型の原子モデル提唱
話は戻りますが、土星型の原子モデルについて簡単に触れましょう。
原子が単一の粒子ではなく、正電荷に帯電する粒子と負電荷に帯電する粒子の集まりであるらしいことが判明していた。
当時著名な物理学者であった英国のJ・J・トムソンは、1903年に、正と負に帯電する粒子が均一に混ざって原子を構成しているという、ブドウパンのような原子モデルを提唱した。
それに対して明治37年(1904年)に長岡は、現在よく知られている、中央に正電荷を帯びた原子核があり、その周りを電子が回っている土星型の原子モデルを提唱した
まー、土星のような形が原子であると考えれば納得。
今日は、ここまでにしましょう。
次回は、長岡半太郎が撒いた種に花が咲き、
刈り取りの時期を向かえ、充実したときを迎えます。
最後まで、お読みいただきありがとうございます。
また、遊びに来てくださいね。
