こんにちは、yukiです。

今日は、事業を起こした男の出会いと、
別れについてです。

「まあまあだったな
 本田宗一郎と藤沢武夫の引退の言葉

この言葉の奥には、二人で築いてきた本田技研での
二人の役割が終わり、後任にバトンタッチできる実感も
含んでいた。
 
それより、これまで二人で、国内、国外での競争に勝ち残るため、
力を出し切った自分達へ言い聞かせて言葉でもあった。


1973年、「本田社長、藤沢副社長引退」との予期しないニュー

 スが流れた。

 
本田は中国出張中でが帰国すると、羽田空港には報道陣が押しか
 けていた。

迎えに出た西田専務は本田に藤沢副社長の辞意を伝えた。
 
藤沢は創業25年を期に、後進が育ったことを見極め、また

 カリスマ社長・本田の限界を感じて、西田専務に「おれは今期

 限りでやめるよ。本田社長にそう伝えてくれ」と言っていたの

 である。

藤沢は、本田の水冷か空冷かの論争で、
本田の空冷エンジンでは、今後の排ガス規制に対応できないと、
冷静に見極めていた。
 いくらカリスマ技術者の本田でも、そろそろ若手に主導権を渡すのが、
今後の発展に繋がると、藤沢は考えていた。

 
本田はすぐに藤沢の意図を了解した。
 
「おれは藤沢武夫あっての社長だ。副社長がやめるなら、
おれも一緒。辞めるよ」
と西田に言った。
本田は、一応社長である。しかし、本社に出社することはなく、
社長印は藤沢に託している。
 
本田自信は、経営の才など、自分に
ないと思っていたので、副社長の藤沢が辞めるなら、
おれも辞めると、即断であった。
 
羽田での記者会見では笑顔で「前々からやめるつもりで
藤沢副社長と相談していた。それがたまたま外遊中にバレて
しまっただけだ」と語った。
 
株主総会で二人は正式に退任した。
       本田65歳、藤沢61歳。
 
     世間ではまだまだ現役で通用する年齢だったことに驚いた。

後継者は、本田技研の大学卒第一号で入社した生え抜き河島喜好45歳だ
ったこともあって、「さわやかなバトンタッチ」と
マスコミは賛辞を送った。

     本田と藤沢の出会いは次のような状況であった。
 
 本田と藤沢が運命の出会いをしたのは昭和24年8月、焼け跡の

残る東京阿佐ヶ谷のバラック小屋だった。
戦争が終わって4年、人々は貧しい中にも、復興の希望に燃えていた。

「浜松の発明狂」だった本田は「東京に出て本格的なオートバイを
作りたいが、金がない。」 


福島で製材所を営んでいた藤沢は「夢のある技術を持った男と組んでモノを売りたい。」 
 

初対面の二人は数分で意気投合し、「モノ作りは本田、カネの工面は藤沢」と
役割分担を決めた。藤沢はその場で製材所を叩き売って、資金を作ることを決意した。
 

それからの二人は、未来について夜中の12時頃まで話し込んでは
翌朝7時頃から話し始めるという毎日を続ける。

     毎日毎日会っているのに、別れる時が辛かった。こういう状態を2、
     3年続けたので、二人は一生の分の話をしてしまい、その後は年に
     数回程度しか会わなくとも、連携してやっていけた。
 
     藤沢が「おれは辞める」と言ったとき、本田がすぐにその意図を察する事が
     できたのも、このためである。


私も大分のちに、こんな映像を見た。

 
本田の社員がメインスタンド一杯に詰め掛けている鈴鹿サーキットで、スポットライトが当たり、本田が浮かび上がった。
 

「よー。おやじ!」 社員から本田はカミナリ親父と恐れられている反面、
      慕われていて、自然に歓声が上がる。
  
  本田は立ち上がり、急にこう言い出した。
  「おれは、社長を辞める。
  おれの後任は、河島だ。
 

   頼りないのが本田の社長の伝統だ。
 みんな、河島を頼んだぜ。」
 
      なんとかっこよい、紹介であること。
 
退任が決まった後の、ある会合で、本田は藤沢に言った。
「まあまあだな。」
「そうまあまあさ。」と藤沢。
「幸せだったな」
「本当に幸せでした。心からお礼を言います」
「おれも礼を言うよ。良い人生だったな」。
これで二人の引退の話は終わった。


それから公式の席で二人は会うこともなく、
これが、永久の別れであった。
 

    このような運命の出会いの二人は、最後の別れも

    さばさばした別れであった。


    最後までお読み頂ありがとうございます。


    また遊びに来てくださいね。