■ローマの興り
前8世紀頃(753?)、インド=ヨーロッパ語族のラテン人がティベル河畔に
都市国家ローマを建設した。(位置…イタリア半島西側海岸の真ん中よりちょっと上)
それより北、ティベル川に沿うようにエトルリア人の王国が広がっていたが、
前6世紀末(509)にエトルリア系の王を追放して共和制となった。
■貴族共和政の時代のローマの政治
ローマ人の身分制度
・貴族(パトリキ)…
コイツらの少数により構成される「元老院」と二人の統領(コンスル)が
ローマを支配していた。
・平民(プレブス)
494の聖山事件(参政権を求めて重装歩兵の平民が篭城)がきっかけで
護民官の職が設けられ、後に平民会が設置されるまでは被支配階級だった。その後、
・初の成文法である十二分表が制定。
・リキニウス‐セクスティウス法が制定
(総領二名のうち一名を平民に)
・ホルテンシウス法が制定
(平民会の決議が元老院の承諾無しに法律に。
この法律により貴族と平民の法的平等が確立)
こうして平民の立場は強くはなったがやっぱり貴族のが強かったらしい。
…しかしその後、中小平民に暗黒の時代が訪れる。
■民主共和制時代のローマの政治
ポエニ戦争などを含む度重なる戦争の勝利で、
続々と属州(プロヴィンキア)を増やしつつあるローマの中小農民は、
・スラ率いる閥族の資本投下による私有地の増加
・属州からの奴隷労働力の流入
により
・奴隷制大土地経営(ラティフンディア)…(日本でいう荘園みたいなもんかなぁ)
が成立したので、まぁ、簡単に言うと生活が荒れた。
具体的に言うと自給自足生活(コロナートゥス制)が進展した。
※コロナートゥス制の第二段階の進展はパックス・ロマーナの時代まで待ってね。
さらに、属州からは安価な穀物やオリーブ油が入ってきて、さらに荒れた。
・(属州では主にオリーブやブドウ等の商品作物を栽培)
・(大商人の一部は、属州の徴税請負人となって私服を肥やした)
無産階級者が増え、彼らは「パンと見世物」を要求。政治家はコレで支持を稼いだ。
ついでに、彼らの代わりに傭兵を起用したりしたので治安が荒れたりもした。
これを見て、あんまりにもあんまりだ、と、
護民官のグラックス兄弟が立ち上がり、改革を始めた。(グラックスの改革)
共和政復活のために大土地所有制を制限しようとしたら、
大土地所有者の反対にあって悲惨に死んだ。南無。
その後は暫く内乱が続くが、それはまた別記事にて。