和田幸夫のブログ

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夕方4時頃、車での外出からの帰途、車中でラジオのスイッチをいれたらNHKで国会の予算委員会の質疑の声が聞こえてきた。今日は環境問題の集中審議だそうだが大した論争も無くつまらないと思いつつ聞いていた。質問者が維新の会の中山恭子議員に変わって麻生副総裁にウズベキスタン訪問時のことを聞いている。

麻生副総裁が大統領から「日本人捕虜がウズベキスタンで一番有名なナヴォイ劇場を造ってくれた。強制労働にもかかわらず、真剣に働いている日本人を見て、日本人を見習えと母親から言われた」と話している。この話を聞いてびっくり。まさか今ここで日本人の美徳の話を聞くとは。実は今日の19時から道徳教育を語らう会で「日本人の美徳」について報告することになっていたのだ。

日本の心を武士道精神を通して世界に広めた新渡戸稲造、エルツ―ルル号の遭難者を救出したトルコと紀伊大島の人達との絆、60万人の台湾貧困農民を救った八田与一、そして日本とロシアを結んだ高田屋嘉平など道徳教育にふさわしい日本人の美徳を用意していたのだが、新たな日本人の美徳に出会とはまさにシンクロである。帰宅するや、もっと詳しく知りたくネットにアクセスした。

強制労働させられているにもかかわらず、真剣に働く日本人の姿を見て、住民達がしだいに好意と尊敬の念を持つようになっていった。

現職の財務大臣が子供の頃にそんな日本人の姿を見て同情し、ナンや果物を差し入れたら、必ず翌日、同じ場所に木を削って作った玩具が置いてあったそうだ。感謝の念を示す姿に触れて「日本人のように勤勉で、よく働く人間になりなさい」と子供達が母親から言われて育ったと語っている。

日本から送られた桜の木で植えつくされた中央公園は「さくら公園」と呼ばれて市民から親しまれている。「さくら公園」の満開の桜と1966年のマグニチュード8.0の大震災でもびくともしなかったナヴォイ劇場の映像をUチュ‐ブで見ながら日本人のすごさと日本とウズベキスタンとの友好の絆の強さにあらためて感動した。

熊野三山の神仏習合       

                           

今年は伊勢神宮の式年遷宮の年だ。伊勢神宮や世界遺産の熊野古道方面に行って見たいと常々思っていたがようやくチャンスが巡って来た。

新幹線で行くかバスツアーで行くか迷っていたが立川から出る伊勢志摩熊野古道巡りとの言葉と立川発に魅かれて予約した。朝7時発、快晴の早朝に中央高速道をひた走って、最初の休憩地八ヶ岳SAに停車した。八ヶ岳の名前どうり目前に八ヶ岳が青空に浮かびあがっていた。以前はちょくちょく清里や諏訪湖あたりに来ていたので八ヶ岳は懐かしい。

八ヶ岳の八つの山の名前は覚えていると思っていたが、思い出せないのも悔しくて案内カウンターの案内嬢に聞くことにした。「ちょっと待って下さい」とカウンターの下をのぞき込み、A4の一枚の紙を取り出してくれた。タイトルに「八ヶ岳ハイウエイショップから見える山」と書かれ下には南アルプスと八ヶ岳の山並みの絵が描かれている。

忘れていた山の名前もしっかり思い出せた。南アルプスに目をやった時にハッとした。

左手から薬師岳、観音岳、地蔵岳と仏の名前が続いている。八ヶ岳にも阿弥陀岳、権現岳があるし、これは何かあるのでは?と思った。神社仏閣を訪れる前の露払いなのか、それとも何か思わぬ出会いがあるのか不思議な感覚にとらわれた。

予感どうりに、熊野三山の最初の訪問地、新宮の熊野速玉大社の入口につくと熊野権現速玉大社と書かれたノボリがはためいていたのだ。権現岳の権現が現れたのだ。聞いてみると奈良時代の神仏習合で薬師如来が祀られていたが明治の廃仏棄釈で薬師如来がどこかへ行ってしまったのだそうだ。

次の熊野那智大社に着いてまたまた驚いた。入口になんと観音菩薩の銅像が立っているではないか。実はこの那智大社のすぐ隣に青岸渡寺を移築させ、そこに観音様を移して廃仏棄釈の難を免れたそうだ。三番目の熊野本宮大社に訪れた時には仏さまの影もない。廃仏棄釈でどうなったのかを知りたくて社務所まで聞きに行った。中年の方が応対してくれて本地仏がおられたとは聞いていますがと言う。仏様はどこかのお寺にでも行かれたのですかと聞いたら、それ以上は聞かないで下さいと困った様子だった。本地仏は阿弥陀如来だったらしく、その後の行方は不明らしい。

往きの中央高速で甲府盆地を過ぎて左手側には薬師如来、観音菩薩が右手側には阿弥陀如来と大権現に出会い、遠く離れた紀伊の熊野で再び巡り会うとは真に不思議な出会いだった。これは単なる偶然ではなくきっと必然性があるに違いないと思った。

日本古来の神道とインドから伝来した仏教との歴史的な係わりをもっともっと勉強しなさいとの暗示だったのかも知れないと思った。

                 

テレビのスイッチを入れると天皇皇后両陛下の前で「もし、もし、カメよ、カメさんよ、せかいのうちで おまえほど・・・」とたどたどしい日本語ながら、日本の童謡を大きな声で謳っている年老いた男女の姿が映し出されていた。この映像は天皇皇后両陛下が2002年にポーランドを訪問した時の映像であると解説している。

日本人に助けられたポーランドの元孤児達が80年の月日を経ても感謝を忘れていなかった。1996年阪神淡路大震災の時にお返しにと、日本人孤児をポーランドへ招待したのだ。両国の友情は次の世代まで引継がれていると解説している。

この映像を観て感動のあまり胸が詰まってしまった。30数年前に仕事で1カ月程ポーランドに滞在した当時のことを思い出した。

首都ワルシャワから100キロほど離れた人口が6万人程の街に滞在したのだが、第一印象は、なぜポーランドの人達はこんなに親日的なのか?と思ったことだ。

街中を歩くと、子供たちが、とうきょう、さよなら、ひろしま、など知っている日本語を親しみをこめて投げかけてくる。バイクはホンダ、スズキがほとんどでソニーのラジカセがドルショップで売っている高嶺の花なのだ。出会った人達は日本や日本人に対して憧れや尊敬の念を持って接してくれる。

彼らとの会話から推察するに、第二次世界大戦で日本もポーランドも国土は焦土と化したが、日本は急速に経済発展したが、ポーランドは低迷している。早く日本の様になりたいとの強い思いから日本へのあこがれから親日的なのだろうと思っていた。

しかしそれだけでは無かった、テレビを見てその本当の理由が分った。

ポーランドは1919年にロシアから独立したが、極東地域には政治犯の家族や難民を含めて10数万人のポーランド人がいた。飢餓と疫病の中で苦しい生活を送っていた。特に親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。せめて子供達だけでも生かして祖国に帰したいとウラジオストク在住のポーランド人がいた。

欧米諸国に救済を求めたがことごとく拒否された。窮余の一策として外交官の交換もしていない日本に嘆願した。日本政府は快く受け入れ、日本赤十字社の孤児救済活動が始まった。1920年から1922年にかけてなんと765名のシベリア孤児を救出したのだ。

日本中の人達から支援と同情が集まった。見るも哀れに痩せこけていた孤児たちはみるみる回復した。日本で病気治療や休養した後、祖国ポーランドに送り届けられた。

横浜港から帰るときには洋服が新調され衣類や菓子、玩具の土産ももらった。出港の時に泣いて帰りたくないと言った子供達もいたそうだ。孤児たちは日本に滞在中、暖かく接してくれた日本の人達に言葉に言いつくせない感謝の気持ちを持っていたと言う。

80年も経った今でも、日本とポーランドの友情が引き継がれていることに感動するとともに、困った人を助ける日本人の美徳を再発見した。

(参考文献)兵藤長雄「善意の架け橋~ポーランド 魂とやまと心」文藝春秋

大学の同窓会があり何年ぶりかで参加した。少し歓談した後、一人の後輩が和服姿で三味線抱えて登場し、自己紹介しますと言っていきなり「江戸の三大祭を知っていますか?」と参列者に問いかけた。

誰かが「日枝神社の山王祭」の答えに「そうです。あと二つは?」に、ややあって「神田明神の神田祭!」と声が出る。「正解で~す。もう一つは?」と周りを見渡していると「浅草の三社祭ですか?」と声が上がった。

「それも正解ですが、私の地元では山王祭、神田祭と富岡八幡宮の深川祭を江戸の三大祭と言っています」と何とも歯切れが悪い。

実はと言って説明し出した。そもそも山王祭と神田祭を江戸二大祭りと言っていたそうだが、日本人は何故だか“三”と言う数字が好きで、それぞれの地元が山王祭と神田祭におらが街の祭を加えて江戸三大祭と言うようになったそうだ。

富岡八幡宮の近くに住んでいますと自己紹介するのにちょっとばかり廻り道の説明だったが、江戸三大祭りのことを知る良い機会にはなった。


その3日後のことである。



日本舞踊のお師匠さんから埼玉の富士市で開催される日本舞踊の会への招待状をもらっていたので、久しぶりに日本舞踊が見られるとあって喜んで伺った。

華やかな日本舞踊に見とれ、いよいよ師匠の出番になった。目次に書かれて演目を見て驚いた。

何と「神田祭」と書かれているではないか。後輩の自己紹介で神田祭のことを聞いたばかりだったのに、まさにシンクロだ。解説を読むと神田祭は江戸二大祭の一つであると書かれている。

江戸二大祭の意味も分り、これから始まる神田祭にますます興味が沸いた。

久しぶりに見る藤間師匠あでやかな踊りはさすがだ。お祭りとあるだけに、途中でおかめのお面と着物の早変わり、お祭り情緒を醸し出す躍りに心酔してしまった。思わぬ神田祭のシンクロニシティに楽しみが倍加した。

帰ってから江戸二大祭をネットで調べると、なぜ山王祭と神田祭だけが、みこしや、山車が江戸城の中に入る事をゆるされたのか、なぜ江戸二大祭と言われるようになったのかなど面白い真実を知ることが出来た。神田祭のシンクロが偶然ではなく江戸の町人文化の最たる祭りや歴史をもう少し学べよとの必然性があったのだと思う。

これも後輩と藤間師匠のお陰で江戸時代の歴史や江戸の祭りを知る良い機会になったことに感謝した次第である。