フランシス・ベーコンに「四つのヒドラ」という
誤謬の分類があることを白取春彦さんの『思考のチカラをつくる本』
で知った。それから、パスカルのパンセには、このような言葉がある
という。
なぜ人は古い法律や古い意見に従うのか。それらがもっとも健全で
あるからか。いな、それらが、それぞれ一つしかなく、多様性の根を
取り除いてくれるからである。
自分でアウトプットしたものが、誰かの用意したものと合致すること
を正しいこと、「正解」として盲信することで、それが楽だから、
それに従うのだと言っている。
宗教における師の答えというのにも、そんな「危険」がある。
曹洞宗の道元さんは、中国で、ある課題の答えを師の僧に示したところ
「そのとおりだ。」と言われ、「そんなに簡単に認めないでくれ。」と
逆に文句を言ったというのが伝わっている。
人生は答え合わせの道のりではない。
考え続けなければならない、しかし考えただけの甘いものは事実に粉砕
される。と白取先生はいう。
白取先生のこの本の最後のところがいい。
考えることは人間であり続けることだ。人間であり続けるために考える
のだ。
パンセの中では、こう書いてあるそうである。
人間は明らかに考えるためにつくられている。それが人間のすべての尊厳
、人間のすべての価値である。
文殊様を頼んで、直観がおりてくるのを待つのは、
考えるのを放棄している、というわけです。
冗談ですが、釈迦とイエス様のあと、それを超える教義とか人が
出ず、未だにそれを信仰しているというのは、人が進化しなかった
のか、冒頭にあるように、超えることよりも信じることの方が
丸くおさまるから、なんていう横着じゃないでしょうね?