静座会で、呼吸を調えるために途中から一分間音読を始めたか、
一分間音読の本に掲載されている作品は初めて出会うものもあり、
感動する作品も多く、呼吸のことはそっちのけとなった。
いつしか、音読本から離れて、それぞれ自分が読んだ本を持ち寄る
ようになり、作品の紹介をしてから読むようになった。
そうして、音読が25%、ストレッチが20%、お茶会が25%、
残りの30%が坐る時間になった感覚がある。
かろうじて、静坐の時間が一番多い。(実際は半分までいかなくても
40%くらいの時間は坐っているのではないかとおもうが)
私の昨日読んだのは、次の通りである。
幸福は人格である。人は外套を脱ぎ捨てるようにいつでも気楽に
ほかの幸福は脱ぎ捨てることのできる者が最も幸福な人である。
しかし、真の幸福はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。
彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。
この幸福を持って彼はあらゆる困難と戦うのである。
幸福を武器として戦う者のみが、斃れてもなお幸福である。
これを読むことができて、風邪で体調が悪かったが、とても幸福であった。
人生論ノート 三木清の幸福についての一節である。
このフレーズ、どこかで似た感覚を感じたが、法華経だと思う。
法華経って、素晴らしいということをずっと言っているが、その
素晴らしい法華経とはこういうものです、というのが出てこない。
三木さんの幸福も、このフレーズだけ読むと書いていない。
もしかすると、自分の胸に手をあてて考えてごらん、と言っている
ような気がする。もちろん、人によってさまざまでよいと思う。
それはともかく、
静坐会というより、「音読で茶話会」、と名称を変える日も
近いように思う。