昨日の夜から喉が変だと思ったら、咳が出始めて寝不足による

不摂生が気持ちの不安定さや胃腸の不調、そして風邪にまで

つながってきたのだな、と思います。即手当をしたので、明日には

回復していくのではないかと思いますが・・・・。

 

昨日はうれしいことがありまして、

というのは、恩師に手紙を書く機会があって、楷書、行書、草書と

しばらく習ってきたので、うまく書いてやろう、とはじめは思ったのですが、

すぐに楷書で丁寧に書くことにして、数回下書きを書いてから出しました。

 昨日は、その返信があり、文末に「書いた楷書は良い」とのこと。

恩師は、書道の先生でもあったのでうれしいご返事でした。

下心を出すことなく、技巧にもよらず、大事な人とは接するものだと

いうことを改めて思いました。

 

うまくやってやろう、というのは見る人が見、聞く人が聴けば、すぐ

見破られてしまうものですよね。

昼休みに偶然聞いた古館伊知郎さんの仏教の話の中でも、それに近いことを言っていました。

【原始仏教②】生きる上での苦しみを軽くするために…『諸法無我』とは?釈迦の教えを古舘節で解説。【釈迦の推し活】 (youtube.com)

 

古館さんは、仏教の専門家ではないのに、なぜ20分もの長い動画に引き付けられた

かというと、「これを伝えたい」という一点のみだからだと思います。

うまくしゃべってやろう、というのがないのです。

釈迦という人の話が今まで伝わってきたのも、釈迦という人がそういう人だった

からでしょう。

ところが、同じ内容をしゃべってもこちらに響いてこない人がいます。

 内容がいずれもが、「ホントウのこと、真理のこと」だとしてもです。

 

そこには、「我」というものが出たり入ったりしているのがみえるものです。

そうすると説得力がない。引き付けられるものがない。

仏教でも神社でも、人が集まるところと、減るところは、そういう違いがある

のではないかと思います。

道元さんに、禅の修行は長く修行した人、昨日から始めた人の区別はない、という

記述がありますが、公案という禅の課題にも、それを言っているのかしら、という

ものがあります。

 

大事なことは・・・・・、書くまでもありませんね。

 

それから、動画の中で、古館さんに、仏教の教えは仕事など何かの役に立ちますか、

という質問がありましたが、是非、現世利益があるならやってみようかとニセ仏教に

興味が出ている人には、この動画を見てもらいたいものです。