二週間ほど前、中島義道さんの本『明るいニヒリズム』を読んでいたら、

過去というのは、記憶として「今」思うだけで、何も残っていない。

第一、森羅万象の過去をすべて保存して残しておける装置があるはず

がない、という説明に納得したのだ。

だから、タイムマシンができたとしても、過去に戻ることはできない、

というくだりがあって、過去は「無い」と判断した。

 

 

思えば、自分が小学校入学以来就職するまで暮らした家は、解体し

その土地も売却して「無い」。解体して時にそこにあったモノもすべて

捨て去ってしまったので、何もかも「「無い」。

両親もいなくなった。そのあと、就職以後のモノらしきもの、記録らしき

ものもすべてこれまで消去してしまったので「無い」。

手帳はつけるが直近二年くらいを残してすべて捨てるので「無い」。

年賀状なども前年のものしか保存していない。

一時期やっていた合気道の衣服も坐禅のものもすべて「無い」。

これからも、自分の使ったものはどんどん自分で消していくのだろう。

歩くそばから足跡を消していく、消さなくても消えていくのだけれど、

自分でできる後始末は自分でやっていこう。

散らかしたものの「おかたずけ」はしないといけない。

 

特殊なことを言っているわけではない。

日本の人口推移予測からすると、どんどん人の数は減って、

そこに生活していたという痕跡も消えていくのだとしたら、

マクロとミクロの違いだけの話だ。

浦島太郎の話を思い出してほしい。減少とは違うが、

自分の知っている世界が消えていた、という話だ。

 

家族というものは、「今」たまたま一緒に暮らしているんだよ。と

母親が言っていたことを「今」思い出す。

なぜ、そう言ったのだろうか?   今思えば、家族が自分が望むような

ことにならず、むしろ崩壊する状況になっていったころだったなぁ、と。

 

「空」という考え方が仏教にあるが、「空」には色も匂いもカタチも寒暖もない、

過去、現在、未来のいずれにも、あったようでなく、なかったようであった

のでは、という記憶とか思い出だけのものに近いかな?などと思う。

 

家族というものがあの時あったのかな?  と思う。

今、毎日家に帰った際にいる家族というものは、実在なのか、三次元バーチャル

なのか、たまたま私の感覚器官が思い込んでいるだけなのか、

正直わからない。

 

肉親がまたひとり減った。これで、親兄弟はすべていなくなった。

 

考えようでは、相対的に言えば、そう相手からすれば自分がいなくなっている

のかもしれない。

 

少し、頭の整理のために哲学の本でも読もうかな。