市川白玄著『仏教者の戦争責任』という本を

読んでいたら、こんなくだりがあった。

 

「平和における平和と自由への罪責は、何よりもまず

「無知」の罪責である。「知らぬがほとけ」の罪責である。

仏教における「正見」と「正思惟」を欠いたことによる

罪責である。

国民教育によって愚かにされ、また狂信者にされた

と言う罪責である。この無知と狂信は、われわれの打算と

臆病すなわち、利口な現実主義と事なかれ主義からくる

認識の勇気のなさによって、拡大し強化された。

 たとえば、権力による組織的な情報操作の「自発的」

客体となることによって。」

 

具体に言えば

(1)事の中に理を見る」という没批判的姿勢に

(2)「差別即平等」が体制擁護の論理に

(3)「即非」が不自由即自由という「随所に従となる」(滅私奉公)

  ことが「随所に主となる」という論理に

(4)「安心(あんじん)が安全への要求にのみこまれる

 

『Zen at War』というブライアン・ヴイクトリアという人の本に

著者は、戦時中は戦争賛美者として、戦後は反省して戦争責任を

追及した人として紹介されている、というが、この本の中で

著者は、臆病、と言う言葉で書いている。

また、大拙が戦前戦後変わらぬとしているのに対して、

西田寸心は、「絶対無のつまづき」として戦時中の西田の考えを

紹介している。

 

何はともあれ、今世界では戦争が起きている。

禅者は、「我、関ぜず」ないし「知らぬがほとけ」をきめこむと、

どうなるのか、ということを1970年のこの本で振り返って

書いているのである。

 

数年前、京都の西本願寺だったか、東本願寺に行ったとき、戦争に

反対した僧侶の資料や写真が資料館にたくさん掲示されていたことを

思い出す。本山は、それらの僧侶をパージすらしたことを、きちんと

説明していた。禅宗各派では、どんななのかは寡聞にして知らない。