お盆が明けて夏も終盤に向かってきてはいますが、まだまだ暑い日が続いております。
ただ、私の居住地である東北某地域は、ここ数日間は涼しい日々が続いていて、とても過ごしやすい。最近の夏は恐ろしい程の猛暑が当たり前のようになっているが、今年の夏はまるで数十年前の子どもの頃の夏休みを思い出させるような、そんな毎日になっている。そういえば、子どもの頃の夏ってこんなだったなぁと、日々感じております。
そんな過ごしやすい夏ではありますが、暑かろうが涼しかろうが変わらない夏定番の食べ物といえば、多くの日本人にとってそれはそうめんであろう。
毎年夏が始まると、およそ一年ぶりに食卓にのぼるそうめんに目を輝かせ、「ツルッとした喉越しが最高だぜ」などと歓喜する。だが、これが連日続いてくると感動は消え失せ、箸を持つ手が露骨に重くなり、ただそうめんという食材を口に運び、空腹を満たすだけの作業と化す。
子どもの頃の夏休みの昼は、普段学校に行ってる子や孫が毎日家にいるため、母親や祖母などに食事の支度の負担が課され、連日お手軽なそうめんが出されることになる。たまには違うものが食べたいなどと言ったものなら「いやなら食べなくてもいい」と一蹴される。
大人になり、自分で食事の支度をするようになってみるとよく分かるのだが、どうしても日々の手間を省きたいと考え、やはりエンドレスそうめんの日々になりがちになる。
そして決まって手を出してしまうのが、悪魔のささやきともいえるであろうアレンジメニューの検索だ。しかしながら、これは過去の経験からかなりの高確率で失敗することが多い。
アレンジメニューの定番と言えば、カレーライスの隠し味にチョコレートやコーヒー、そして蜂蜜。卵かけごはんにごま油、粉チーズ。チャーハンにマヨネーズを入れてパラパラにするなど。
どれもこれも初めの一口目は目を見開くほどにうまいと感じるが、結局カレーは普通のルーの味が落ち着くし、卵かけごはんは醤油のシンプルさが一番だし、チャーハンも塩コショウと醤油の味が恋しいという結論に至りがちだ。
きっとプロのレシピを完全再現したアレンジであれば違った結果になるのかもしれないが、世の素人シェフにそれを求めるのは酷なことであろう。
しかし、分かってはいるのだが、先日当たり前のように涼しげな顔をして食卓にのぼったそうめんを見たとき、私の視界は唐突に歪みだし、まるでゲシュタルト崩壊が起こっているような錯覚にとらわれた。
もう限界だった。私は今日、オーソドックスなそうめんに決別を告げると心に誓い、強い決意を胸にスマートフォンを手に取り、「そうめん アレンジ 手軽」と打ち込み検索を開始した。
次々にそうめんという退屈な食材に抗おうとする天才シェフたちの知恵が溢れ出す。
「これはもはやラーメン」「やみつきになるスープ」「だまされたと思って試してみて」という煽り文句が躍る。私はその中から、特に目を引いた「ごま油香る!濃厚豆乳坦々風そうめん」のレシピを採用することにした。
いつもの私ならお湯を沸かしてそうめんをドンで終わりだが、今日ばかりは違う。冷蔵庫の奥から豆乳を引っ張り出し、すりごま、ラー油、鶏ガラスープの素、さらには普段使い道が分からず眠っていたコチュジャンまで総動員した。
「ふっ、これでもういつものそうめんとは言わせないぜ」
計量スプーンを駆使し、ボウルの中で特製スープを調合する。台所に広がる香ばしいごまとラー油の香り。この時点で、いつものただの作業と化したそうめん作りとは一線を画す「料理してる感」に胸が高鳴る。茹で上がった細い麺を氷水で冷やし、限界まで水気を切って、満を持して濃厚なクリーミースープへと投入した。
仕上げに万能ネギを散らし、いざ、実食。
一口ズズッと口に吸いこむ。美味い。確かに美味い。ピリッとした辛味の後に、豆乳のマイルドなコクが追いかけてくる。これはもはやそうめんではない。お洒落なカフェで1,000円以上払って食べる冷製ヌードルだ。ネットの天才シェフたちよ、ありがとう。私はついに、めんつゆの呪縛から解き放たれたのだ!
……と、歓喜したのも束の間。
事件は、3口目を過ぎたあたりで起きた。
「なんか、重いな……」
何だろう、この急激に押し寄せる満腹感と、喉の奥に居座るしつこいような主張は。
猛暑で疲弊したおっさんの胃袋にとって、冷たくてドロリとした豆乳と油の波状攻撃は、あまりにもヘビーすぎた。ツルツルと軽快に啜るはずのそうめんが、一口ごとに確実にダメージを残しながら喉を通過していく。美味い、美味いのだが、私が夏に求めていたのは、このガッツリ感だっただろうか。
なんとか完食し、油の浮いた丼をシンクに運んだとき、追い打ちをかけるような絶望が待っていた。
計量スプーン、ボウル、ラー油のタレがこびりついたシリコンベラ。そして、ごまの油分を吸ってヌルヌルになった丼。
これは恐ろしく片付けがめんどくさい。いつもなら、蕎麦猪口を1個洗えば終わるはずのそうめん。それがどうだ、数分の高揚感と引き換えに、私はギトギトの調理器具たちと格闘する羽目になった。汗をかかないためにそうめんを選んだのに、洗い物を終える頃には額に汗がにじんでいる。本末転倒とはまさにこのことだ。
翌日、私は再び台所に立っていた。手元には、昨日と同じそうめん。
そして私は、迷うことなく冷蔵庫からめんつゆのボトルを取り出した。
氷を数個入れた蕎麦猪口に、琥珀色の液体を注ぐ。薬味は、刻んだねぎのみ。
茹でたてのそうめんを冷水で締め、そのままめんつゆにイン、そして一気に啜る。
「……あぁ、これだよ」
五臓六腑に染み渡る、鰹と昆布のダシ。キリッとした醤油の塩気と、ねぎの爽快感。何の衒いもない、ただのめんつゆが、傷ついた私の胃袋を優しく包み込んでいく。
結局のところ、人間は迷い、遠回りする生き物なのだ。
中華風だの、イタリアン風だのと浮気をして初めて、長年連れ添ったパートナーの偉大さに気づく。そうめんにとってのめんつゆは、空気であり、最高の相棒あった。
ネットの「革新的なレシピ」は、たまのスパイスでいい。
私はそっとスマホのブックマークを消去し、めんつゆのボトルを冷蔵庫の特等席へと戻した。やっぱり、その場所がお前にはお似合いだ。
そんな感じで。