朝の通勤ラッシュ。
1分1秒を争う秒刻みの戦いの最中、最悪のタイミングで現れるのが「片側交互通行」の看板である。
その日も私は、いつも通りのギリギリのスケジュールで車を走らせていた。
「生活道路の法定速度、時速30キロへ引き下げ」で痛い目にあったばかりだというのに、学習能力の低い中年おやじである。
遅刻を回避すべく安全運転で先を急ぎ、カーブを曲がった先に待っていたのは、無情にも行く手を阻む「工事中」の黄色い文字と、鮮やかな蛍光オレンジのベストをまとった一人の警備員さんだった。
彼は手にしたライトセーバーを彷彿とさせる赤い誘導灯を、まるで一流のオーケストラを率いる指揮者のように大きく振っていた。
「止まれ」
彼の完璧な静止ポーズ。車列は順に停止し、私もブレーキを踏み、首を右側に傾けフロントガラス越しに彼を見つめる。待っているこちら側の車は一様に、目に見えない焦燥感が立ち込めている。
すると、私の目の前にいた黒のセダンのウィンドウが、ウィーンと不穏な音を立てて開いた。
運転席から身を乗り出したのは、見るからに遅刻寸前といった形相の男性ドライバーだ。彼は腕時計をバンバンと叩きながら、警備員さんに向けて「おい!いつまで待たせるんだよ!こっちは急いでるんだ!」と、朝の静寂を切り裂くような怒声を浴びせた。車内にまで響くその緊迫感に、後ろの私は思わず身を固くする。
しかし、現場のプロは動じなかった。
警備員さんは怒鳴られた瞬間、まるで一流のホテルのコンシェルジュのような、一点の曇りもない極上の笑顔を黒のセダンに向けたのだ。そして、言葉で返す代わりに、胸の前にそっと両手を合わせ、まるでインドの聖者のように深く、神聖な一礼を捧げた。
その姿は、怒りという名の濁流をすべて浄化してしまうかのような、圧倒的な静のオーラを放っていた。
男性が「あ、いや, だからさ……」と出かかった文句を飲み込み、毒気を抜かれたように呆然としたその瞬間、警備員さんのスイッチが再び切り替わった。
対向車が途切れたのだ。彼はライトセーバーを大きく頭上に掲げ、マイケル・ジャクソンさながらの鋭いステップで、黒のセダンに進めと合図を送った。
「さあ、お待たせいたしました! ここからはあなたのステージですよ!」
視線でそう語りかけながら、華麗な手さばきで前方を指さす。文句を言っていたはずの黒のセダンのドライバーは、あまりの急展開とキレの良さに気圧されたのか、小さく「あ、うっす……」と呟いたように見えた。角の取れた丸い運転で、滑らかに車を発進させていく。
続いて私の番だ。私は彼の熱いプロ根性に最大級の感謝を込めて、通り過ぎる瞬間に「ペコリ」と頭を下げた。すると、隣の対向車線で待機に入った車のドライバーも、なぜか私につられて同時にペコリ。さらに私の後ろの車のドライバーもペコリ。
狭い工事現場の入り口で、見知らぬ大人たちが警備員さんの華麗なコンダクトに魅了され、謎のお辞儀の連鎖を引き起こしていた。バックミラーを見ると、警備員さんはすでに次の車列を止めるため、まるで歌舞伎のような見事なみえを切っていた。
そして、翌朝のことである。
その日の私は、朝一番でいつもとは違う現場へ直行する予定が入っていた。ナビが示す最短ルートは、昨日とは全く違う、渋滞のない快適なバイパス道路。業務の効率を考えれば、間違いなくそちらを選ぶべきだった。
しかし、私は気がつくと、あえて遠回りになるいつものルートへとハンドルを切っていた。
頭をよぎるのは、あのキレキレのステップと、聖者のような微笑み。1分1秒を争う社会人が、自ら進んで渋滞の発生源へと吸い寄せられていく。もはや道路誘導ではなく、完全に心を誘導されていた。
現場に差し掛かり、赤く光る棒が見えた瞬間、私は心の中で小さくガッツポーズを決めた。
「よし、今日も開演している」
今日もまた、フロントガラス越しに始まる朝の無言劇。あの指揮者がいる限り、私の遠回りな通勤タイムは、しばらくやめられそうにない。
そんな感じで。










