鎌倉時代 奥州 藤原氏による平泉の黄金文化が花開いていた。
一説には古い川の痕を掘れば砂金が楽に採れたとも言われている
当地を流れる皆瀬川と隣町の増田町を流れる成瀬川の合流する処の三角洲は流れ着いて合わさった砂で黄金色に輝いていた と言い伝えられている。
成瀬川の支流近くには吉乃鉱山があり 皆瀬川の支流の近くには落合金山も有った。
もしも小野寺氏が治めていた時にこの辺りの金山や院内銀山を探し当てていたら北東北の覇者になっていたかもしれない。
小野寺氏最初の城である稲庭城から落合金山までは直線で3キロ足らずの場所に有った。
後三年の役に発展するキッカケとなったのは 横手の清原氏の祝の席に三方に山盛りの砂金を持ってきた清原氏の支城の叔父に対して無礼な扱いをし 叔父が怒り砂金をぶち撒けて帰った事に起因するとも云われている。
それ程 後に継父の清原氏から岩手に戻って実父の藤原姓を名乗った清衡は生涯 黄金に縁が深い人だったようだ。
平泉藤原氏は時の京の帝のもとに毎年 金を40kg近く届けていた様だ。
それを武力に変えたら頼朝など蹴散らして京まで上れた事だろう。
清衡は天下国家など興味は無く
北上川の河口に港を整え 琉球や中国 東南アジアとの交易で京に勝るとも劣らない都を東北の地に造りあげた。
今となってはまさに兵どもが夢の跡そのものだ。
『平泉を見ずして歴史を語るな』とジジイは言いたい!


