当地にも 火 にまつわる伝説がある。


我が家から2キロの東の山裾にその昔 源義家が平泉の藤原の祖と云われる藤原清衡が母が横手市金沢の清原氏に清衡を連れて後妻に入った事で幼少期から金沢で育った。

後に腹違いの弟との跡目相続の諍いに源義家がはるばる京から参じて後三年の役と呼ばれる大戦にしている。


義家としては当時金沢は勿論 奥州は砂金と名馬の一大産地として

京の公家にも知れ渡っていたから

そういった奥州の産物が目当てだったのだろう…陰では奥州は蝦夷とか蛮族の住む地と蔑みながらこれが今日まで続く中央の東北に対して持っている本心だ😮‍💨


しかし戦況は義家軍に厳しいもので戦地から30km程は離れている当地まで軍を後退させそこで1体の木馬を自ら彫ってそれを納める小さな社を建立した。

その後 戦場に戻った義家軍だが戦況は厳しいままでもはやこれまでかと思われたその時に突然空から馬の嘶きが四方に木霊したかと思うと空から馬が現れ敵軍に向かっていった。

それを見た敵軍は恐れおののきその機に乗じた義家軍が勝利する事が出来た。

後に義家が京に帰る時に勝利はあの神馬のお陰と木彫りの馬を祀った社に立ち寄り立派な社殿を寄進して旅立ったと伝えられている。

歴史は勝者によって作られるそのままに 敵軍である清原氏の一族を悪路王と名付けたり まったく迷惑この上ない。

京に帰った義家がお上に褒賞を求めたが却下されたのは賤しい下心からはじめた私戦だと断じられたからで自業自得の見本みたいなものだという気がしている♪‼️

その社が八幡神社だと伝わっていてその木彫りの馬の像を神宝として護っていた。

ところがある時八幡神社が火災に遭った時 燃え盛る火の中から神宝の木彫りの馬が飛び去って行った。
それ以来 その神馬の像の行方は知れず人々からその像の記憶も消えていった

そこから数百年経った頃 1km程離れた隣村の林が夜ごと大音響
と共に妖しい光を発する様になり 近くに住む人々を恐れ慄かせていた。

そこに旅の修験僧が訪れ 理由を聞いてその原因を確かめる為に林の中に入って行った。

夜になり暫く経つと辺りに大音響と共に昼を思わせる眩しい光に包まれた。

修験僧は心を落ち着かせ光の元を探した。

すると大きな木の洞から発している事が判り修験僧はその洞目指して登って行った。

漸くたどり着くと目も眩むような光を発しているのは1体の木彫りの馬の像だった。

修験僧は大切に抱えて下りるとその地に社を建てて自ら神官となり以後社の御神宝として現在まで子孫により護られている。

駒形の八面神社の起源として伝わっている。

我が家から5km程の所を頼朝の追手を逃れる為に平泉を目指して逃避行中の義経一行が通ったと伝わる街道や最後の峠に繋がる道がある。

途中の真人山では満開の桜の下で休息をとり、岩手に通じる最後の峠に向かおうとした時に弁慶が満開の桜の一枝を旅のともにと折って立ち去ろうとした時に
桜の木の精だという白髪の老人に代償としてその命をもらい受ける‼️と言われて義経が平身低頭で部下の弁慶の非を詫び漸く許されて最後の峠に向かって行ったというエピソードも語り継がれている。

義経一行逃避行 歌舞伎名場面勧進帳の安宅の関守 富樫左衛門尉康家も義経を逃した事で頼朝から逃れようと一族と菩提寺の住職と逃れて辿り着いた先が花火で有名な大曲の近くの神宮寺で
建てた寺 宝蔵寺は県内では最古の曹洞宗の寺と云われている。

尚 高校時代の恩師は富樫姓で子孫だそうだ…シランケド😛♪