私は自分の発達障害に気づいたきっかけが、父の言動を日々見ていたからだった。
父は、感情的にコントロールが出来なくなる、でも、自分の損得で動いてるわけではなく、馬鹿正直で、正義感で生きるこの人に、本心で悪気はきっとないことは分かっていた。そして、激昂した記憶が翌日にはすぐなくなる、そういう不器用な生き様や特性が、自分と生き写しの人だった。
父の悪気がない気持ちが痛いほどわかるからこそ、ネットで『障害、記憶喪失、感情』とか自分なりの感じたキーワードを、20代の頃ネットで調べた事があった。その時、ADHDや発達障害という言葉、遺伝するという事実に初めて到達した。
そこからは発達障害の本を何冊も読みあさった。
そして、この自分の異常な性格や認知の歪みは、全ては自分のせいではなかったと愕然とした。
脳の伝達がうまくいかない事、遺伝性という先天的なものに、ほんの少し、救われたと涙を流したのと同時に、抗えない事実に悔しかったのもあったと思う。
でも遺伝した以上、もう受け入れて向き合うしかないし、今自分も子を2人持つ以上、同じくこの気難しさは遺伝するんだなとも正直思っている。
親として自分が40年、歪んだ認知で苦しんできたからこそ、自分の子には苦しんでほしくない。今はそう思ってる。
自分を反面教師にして生きていく。
その点、主人は本当に人間のできている人。たくさんの友人に囲まれ、私と真逆の生き方をしてきた。正直卑屈にならない程度に、パパを目指しなさいって、子供には伝えたいと思ってる。
(私にしかない良い部分も探しつつ)
子を褒めるときは、何かできたから褒めるのでなく、存在自体が大切な事、出来なくても、癇癪起こしても、泣いても、笑っても、そのままのあなたが大切なんだよと、毎日伝えるようにしてる。
実は、姉もそうやって子供を育ててるらしく、2人で笑った。子供は親から足りなかったものを、ちゃんと学んで生きようとしてるもんなんだと思う。
母は、そういう育て方を、私達姉妹にしてこなかった。権威ある仕事をしていた父の、世間体だけ気にして、とにかく父に恥をがかせないでほしい、そういう子育てや声の掛け方しかできなかった。矢印は父にしか向いていなかった。
亡くなった父は、思えば、『そのままの私でいい。ちゃんと良いものたくさん持っている』と、褒めて信じて、私達に伝え続けてくれる人だった。
だから動かなくなっていく、人の魂が抜けていき、動かなくなり死ぬというその瞬間まで、私は自分の目で父を見届ける事を選んだ。本当に大好きだった。
同じ親でも理解者になりたいと寄り添える気持ちが持てるのと、持てないのの違いは、どういう愛情を自分が受けたのかの違いなのかなと、今回読んでいて思った。
今、母の介護に向き合ってるが、私は母に愛情を全く向けられない。非道な人間と思えるほど、きつい言葉を毎日投げかけてる。
同じ親なのに、何故だろうと毎日葛藤してきた。
でも、きっとその根本には、
父は親になるべき人だったけど、
母は親になるべき人ではなかった。
そんな事実があった気がしてならない。
自分が今、ギリギリのところで母を見捨てないのは、大好きな父との約束だったからだった。
でも、父亡き今、その約束は母の本性と1人で向き合うには、重すぎたように思う。母と向き合えたのは、父が本当に人間として出来ていたからだった。
40年、病気がちの両親の為に私は自分を犠牲にしてきたのだから、そろそろ父もこの呪縛から、私を解放してくれないだろうか。そんな事を思う日々。