2月22日は猫の日です。222、ニャンニャンニャン、と猫が鳴くからです。加えて今年は2022年。2022222、2が6つも並びます。

 

 

さて私は幼い頃に、実家で猫を飼っていました。

私が生まれる前からこの猫は家にいて、名前は「ポンポン」と言いました。名前の由来は、猫が度々飼い主の前で寝っ転がって、ポンポン、つまり「お腹」を見せていたからです。

 

ポンポンは元々「迷い猫」でした。父がまだ独身だった頃に、父の実家に迷い込んできたのです。小さな赤ちゃん猫だったポンポンが母猫と共にふらっとやってきて、その後間もなくして母猫は亡くなり、ポンポンだけが残されたそうです。

 

 

当時20代だった父はポンポンのことを、文字通り猫かわいがりしていました。

 

代々続いていた自営業の後を継ぐために独身だった父は実家を出、「店舗兼住宅」である建物に引っ越しをしましたが、そこにポンポンも連れていきました。

20代後半の男一人と猫が一匹、そのまま寂しく老後までいってしまいそうな雰囲気漂いますが、幸いなことに父はその後の見合いで妻、つまり私の母と結婚しました。

 

 

両親が結婚し、母が突然「店舗兼住宅」のその建物にやってきた日、メス猫であるポンポンは猛烈に嫉妬したそうです。母の布団の上にだけおしっこをしてみたりして、彼女は母のことを必死に追い出そうとしました。

 

しかし結婚後、ポンポンの餌は母が準備することになっていました。動物にとって餌をくれる人は神様です。ポンポンはじきにほだされ、母の足元にすり寄るようになりました。尚、母は、実は猫嫌いです。

 

 

 

 

 

 

母に対しては当初猛烈に嫉妬して見せたポンポンでしたが、その内に産まれた赤ちゃんの私に対しては嫉妬を見せず、遠巻きに観察していたそうです。

一人っ子の私にとって、ポンポンは良い遊び相手でした。産まれたときからポンポンと一緒で、私の人生にはポンポンがいるのが当たり前でした。父と母がそこにいるように、当然にポンポンも、ずっとそこにいるものだと思っていました。

 

 

私が小学4年生のとき、ポンポンは病気になりました。病気と言っても老衰に近く、その時のポンポンは恐らく齢17。

「恐らく」というのは、迷い猫であったため正確な生まれ年が分からなかったからですが、父とは16年以上一緒にいましたから、人間で言うと80歳近いおばあちゃん猫であったことは間違いありません。

そんなおばあちゃんのポンポンが日に日に弱りついに息絶えた、その日はまさしく猫の日、2月22日でした。

 

 

大きな段ボール箱をポンポンはねぐらとしていましたが、亡くなる数日前からポンポンは、ほとんどそこから出てこなくなっていました。

当時小学4年生だった私は、箱の外から中のポンポンの様子を伺い、今日も生きている、まだ生きている、と毎朝確認していましたが、2月22日の朝のポンポンは、それまでとは違いピクリとも動かないように見えました。

 

しかし私は困ったことに、「動物の死」にこれまで触れたことがありませんでした。

目を閉じているし、胸元も呼吸で動いたりはしないけど、なんだかまだ体は温かい気がする。猫には毛が生えているので、そっと触った程度では体にまだ熱があるのか、冷たくなってしまっているのか、よく分からなかったのです。

 

困った私は父を呼びました。あの時のことはよく覚えています。

「お父さん、ポンポンが生きてるのか死んでるのか、よく分からない。」

 

父は私の呼びかけで、ねぐらで目を閉じたポンポンを確認しました。

そして、「これは、死んでるなあ」とつぶやき、静かに涙を流しました。

 

父が泣くのを見るのは生まれて初めてでした。悲しむ父の様子を見ていたらこちらまで悲しくなってきて、そこで初めて私も泣きました。

 

 

 

 

ポンポンが死んだ2月22日は平日でした。

朝、たしか7時頃に亡くなっていることに気付き、その後すぐに自宅の裏山へ行って穴を掘り、ポンポンを土に埋めました。その上に手ごろな石を置き、お墓を作って、その頃には朝の9時を回っていました。

 

小学生の本分は勉強です。ポンポンが死んで悲しいですが、それでも私は小学校へ行かねばなりません。

父に車で送ってもらい、1時間目の授業が終わった頃に私は教室へ入りました。

 

 

その日の昼休み。私は担任の先生に、「ゆきんこさん、ちょっといい?」と手招きされました。

先生の元へ行った私はそこでかけられた言葉に思わず固まりました。

 

「ゆきんこさん、今日は何故学校に遅れたの?」

 

子どもながらに私は思いました。

「おいオトンとオカン!学校に、遅れるって電話、してなかったんかい!親なのに、何をしとる!おかげで私は今大ピンチやで!」

 

幼かった私は、ペットが死んだくらいで学校に遅刻したなんて言ったら先生に怒られるのではないかと思いましたが、他に良い言い訳も見つからず正直に話しました。

「飼っていた猫が今朝死んで、お墓を作っていました」

 

言葉にしたら私はまた悲しくなり、先生の前でボロボロ泣き、そんな私の様子に先生は慌てていました。

そうだったの、ゆきんこさん分かったから、もう良いわよ、そう優しく声をかけて私を席に戻してくれました。

 

 

私はそのとき、ポンポンが死んだばかりでたしかに悲しかったのですが、ボロボロ泣きながらも心の片隅では、「オトンもオカンも、学校に連絡くらいしとかんかい!まったくほんまにあの二人はヌケてるんやから、」とかそんなことを思っていました。

 

尚実際のところは、両親は私が学校に遅れる旨の連絡をきちんとしていました。しかしその「理由」を明確にしておらず、「ちょっと遅れます」という言い方をしていたそうです。

遅刻理由を学校へ伝えていなかったことで、私に何かあったかと先生は心配し、かけてくれた質問であったようです。

 

 

ポンポンが死んで本当の意味で悲しみを覚えたのは、それから数日経ち、ふとしたときにポンポンの不在を実感してからでした。

産まれた時から一緒に暮らしてきた飼い猫が死んだ、それはとても悲しいことでした。

 

しかしポンポンが死んだときのことを私が思うとき、「先生に遅刻理由を聞かれてマズいと焦る自分」の姿もセットで思い出し、私は少し笑ってしまいます。大人である親からうまいこと言うとかんかい!と心の中でツッコミを入れている、小さな自分の焦る姿に笑ってしまうのです。

 

いつ死ぬか分からない迷い猫の赤ちゃんがそこから17年も生き延びた。食うに困らない平和な生活を手に入れ、猫の日に亡くなった。

ポンポンのそんな盛り沢山で幸せな一生をしのぶ時は、涙よりも笑顔のほうが似合っているように思います。先生から遅刻の追及を受けたというオチが、私の中にあるポンポンの最期への記憶すらも、小さな笑いで彩ってくれたように思えるのです。

 

 

 

 

※私が大人になってからは、三毛猫だったポンポンにそっくりな「小春」を迎えました。

 

 

 

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