ホームセンターのペットコーナーで、ただの「アマガエル」が500円で売られていました。
親指サイズ程の緑色のアマガエルで、我が家の庭にも何匹か住み着いている、本当にどこにでもいるカエルです。
 
我が家では色々な生き物を捕まえては試しに飼ってみており、庭のアマガエルと、カマキリと、カナヘビは、一応「放し飼い中のペット」ということで息子の中では位置付けられています。
アマガエルは、恐らく5匹は庭で「飼育」中で、あれを全部売れば2500円か、大事にしなければと、色々なことの基準がお金である私は途端に飼い主としての責任を感じました。
 
 
家の中でも色々と飼っており、先日記事にしたクサガメとは別に、最近川で捕まえたスッポンの赤ちゃんも飼っています。
 
この写真のどこかにいます。さてどこだ?

 
 
 
 
ここでした。

 
スッポンは臆病で砂に潜る習性があります。これは砂から顔だけ出している状態です。スッポンは普通の亀と違い水中の酸素を取り込む身体機能を持っているため、30分も潜っていられるそうです。
 
と、こういう話を実家の父にしたところ、その情報への反応は無かった代わりに
「そのスッポン、売れるんじゃない?」
と一言頂きました。さすが親子、発想が私と全く一緒です。
 
 
神社で見つけたアリジゴクも飼っています。さて巣はどこた?

 
 
ここでした。

 
餌として入れたアリはちゃんとこの巣に落ち、アリジゴクに捕まります。
 
 
カメもアリジゴクもカマキリもそうですが、息子がこれらに色んな虫や川の生き物を餌としてやっていると、その様子を見た近所の子どもたちは「餌になる生き物が可哀想」、「残酷だ」と言います。
 
子どもたちと話していて思うのですが、幼い時は見た目が綺麗なものほど命の価値が高く、見た目の悪いものほど命の価値が低いと考える傾向にあるようで、例えばアリと蝶であれば蝶のほうが命の価値が高いようです。
だからアリに、餌として蝶を与えていると「残酷だ」という感想が出ますが、これが例えばアリに与えているのがハエであった場合、残酷だという声は途端に収まります。
 
命に貴賤は無いんだよという話もできなくはないですが、見た目で命の価値を決める子どもたちの素直な様子がなんとも人間の真理を表していて、私はその様子を否定するでもなく見守っています。
 
なぜなら私も、命の価値については自分の価値観の中で優劣をつけていて、例えば害虫のゴキブリは死んでも良いけれど、益虫のクモは助けてあげなければと好き勝手なことを思っているからです。
ペットショップのアマガエルが500円であると知った途端に、庭のアマガエルの見る目が変わり労ってやろうかと考えます。
 
 
子がカメや虫などの生き物を飼っていると言うと、情操教育に良いねと言われ、たしかにせっせと餌をやり、糞の世話をし、いずれ死にゆく生き物を一生懸命育てるのは命の教育として好ましいことではあります。

しかし同時に、ペットを飼うということは自分のペットと、その他大勢、特にそのペットの餌となる生き物との間で明らかに扱いの差をつけるということです。
それは情操教育とは言い難い、「命に優先順位を付ける」という人間の残酷な一面を著しく表しています。
 
ペットを飼うという楽しみの為に意図的に他の命を奪うそれの何が教育か。人間が本能のままに遊んでいるだけじゃないかと、楽しそうにカメに生餌をやる息子を見ているとそう思いますが、生餌を食べたばかりのそのカメも、外に放っておけばどこかの鳥に食べられてしまうと気付いた息子は私に一言、「お母さん、命はぐるぐる回るんだねえ」と言いました。
アリに食べられる蝶を「可哀想」などと思わなくても、その一言が生まれただけで子がペットを飼う意味としては充分だろうと感じます。
 
 
 
 

 

 

★ランキング参加中★

にほんブログ村 その他生活ブログ 家計管理・貯蓄(30代)へ
にほんブログ村