私は幼い頃におもちゃらしいおもちゃを買ってもらった記憶がほとんどありません。
とはいえ赤ちゃんの頃の写真を見るとそれなりにおもちゃはあって、またある程度成長してからはリカちゃん人形一式が家にあったことも覚えています。
金額的にはそれだけでも充分買ってもらっていたことが分かりますが、しかし私がどうしても「あまり買ってもらえなかった」と思ってしまうのは、金額に関係なく「欲しいものを欲しいタイミングで」買ってもらえたことがほとんど無いからです。
裕福な家でも無いことは子どもながらに分かっていたので、あれが欲しいと親にねだることがそもそも少なかったのですが、たまにねだったとしてもちょっと嫌そうな顔で買ってもらえるか、一旦保留となるかのどちらかでした。
私がねだったものに対して「それいいね!買おう買おう!」と私と同様な喜ばしい気持ちで親と一緒に買い物をした記憶が無く、たまにしかねだらないのにどうしてこうも買ってもらえないのだろうかと子どもながらに大変疑問で、買い物というものについて楽しかったり嬉しかったりというプラスの感情を持ったことがありません。
恐らくその経験が今の私に影響しており、お金を遣うのは悪いことで、貯めることこそが正義であるという思考のまま大人になってしまいました。
我が子にはもっと普通に、幼いときの買い物を「楽しいこと」として記憶してほしいという思いがあります。ですから私は、子どもが「これ欲しい」と言ったものを無条件にポンと買ってやる、ということを、時々意識的に行うようにしています。
誕生日まで待とうね、とか、今日はおもちゃを買いに来たんじゃないよ、とかいうことは物心がつく前から子には逐次伝えてきていました。
そうして買い物については躾のベースが整い我慢を覚えた息子にとって「それでもこれが欲しいのだ」というものを、そのタイミングぴったりに買ってやることは子の承認欲求を満たす上である程度必要なことだと考えます。
我慢ばかりをさせることは子の人生に影を落とすと、私は自分の経験から感じています。
先日、主人の母が息子にダイソーのブロックをくれたのですが、12歳以上と書いてはあるもののブロック好きな7歳の息子はえらく集中し、ステゴザウルスを一人で組み立てることができました。LEGO同様に、説明文は無く図を見て組み立てていくタイプです。
他の種類も欲しいというので、今日早速いろんな種類のブロックを買いに行きました。どのブロックにしようかと一緒に選びながら息子は、
「お母さん、これ難しいんだけど、その分できあがったときに、一人でできた!ってすごく嬉しいんだよ」と楽しそうに話してくれました。
お金は大切ですが、買い物は悪ではありません。楽しいおもちゃを、息子が欲しいタイミングで買ってやることは子どもの心の成長にとって大事なことです。
私のようながめついケチにならぬよう、しかし浪費もせぬように、バランス良くお金を遣える人になってほしいという気持ちで息子と共に沢山のブロックを選びました。
私が教えるべきは「100円のおもちゃはすぐに壊れるから買うな」ということではなく、「100円のおもちゃはこうして遊び倒すべし」というその遊び方のほうです。
物の価値というのは親が教えることではなく、息子本人が自分の価値観で判断すべきことです。
息子の価値観が出来上がる途上である今、100円のおもちゃでどんなことができるか親が共に遊ぶことでその可能性を探り、「物の価値」について多方面から考えられる人になって欲しいと思います。
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