代官山のアートフロントギャラリーへ。ヒルサイドテラスの1番手前の建物でした。
この日はJGA(通訳案内士協会)主催の、アート研修。通訳案内士のための団体はいくつかありますが、新人研修からお世話になり、尊敬できる先輩ガイドさんが運営に当たってくださっています。お仕事に役立つような研修を、その道の専門家を招いて行ったり、ある時は会員の先輩方だったり。ものすごく勉強になります。
今回は、まず、アートフロントギャラリーへのアクセスから、先輩ガイドさんが、手書きの地図を2枚も添付でメールでお送りくださり、みんな間違いなく会場に到着できました。
講師の先生はこちらのギャラリーの前田礼さん。
実はこのギャラリーは、ただのギャラリーでは無かった!と、まもなくわかる。北川フラムさんの経営のギャラリー事務所で、瀬戸内芸術祭、大地の芸術祭を、実現なさったコアの方の場所だったのでした!!
今年の4つの芸術祭。のパンフレットをいただきました。
どの芸術祭も、新型コロナの影響を受けて、昨年開催予定だった、いちはらアートxミックスは、昨年から延期。北アルプス国際芸術祭も2020年6月が延期。奥能登国際芸術祭2020も2020年9月から延期。
大地の芸術祭、越後妻有(えちごつまり)アートトリエンナーレ2021は、は、2021年7月25日から9月12日開催予定でしたが、先週土曜日に延期が決まってしまった。。とのこと。でも、恒久作品も多いので、祭りはないけど、ぜひ来て下さい、とのことでした。
2000年から3年に一度の開催、前回2018年は54万人の来場者を記録して、経済効果や雇用、交流人口の拡大するをもたらしたそう。
越後妻有(えちごつまり)は、造語で、とどのつまり。と言うように、長野に接した越後の奥の十日町、津南町を指して言うそうです。
東京から車で3時間半、電車で2時間の距離。では。どおして、ここで?!というのは、地域からのリクエストだったそう。
平成の大合併がさかんで、新潟も百十五の市町村が35に減ってしまったそう。当時の知事が、「ニューにいがた里創(りそう)プラン」を掲げてアイデアを募っていたそう。そんな時、立川の米軍跡地でパブリックアートのプロジェクトを立ち上げていた北川フラム氏に相談が舞い込んだそう。
人口わずか3万人。厳しい豪雪地帯。そんな中で米作りが行われてきた土地。信濃川が流れる河岸段丘。ブナ林。
当時村落が抱えていた問題は、過疎と高齢化。
こんなことから、「人間は自然に内包される」という基本理念が、生まれたそう。
美は地域を開く。10の思想をもとに地域とともに芸術祭を企画していったそうです。
地域にアートを点在させることで、人々が集落を訪ね。訪ねた人が、そこで暮らす人と芸術、暮らしを知ったそう。
でも、素朴な農村にいきなり現代アートが入ることに抵抗があったそう。
田中真太郎氏の○△□の塔の赤とんぼ。
びっくりしたそうです。でも、そういう引っ掛かりがあるのは、人をアートに惹きつける。
でもそれを観に大勢の人が来て、新たなコミュニティが誕生したり。
他者の土地に作品を作ること。アーティストは、棚田になっている場所に作品を作ろうと思ったそう。もう田んぼで米を作るを辞めようと思っていたおばあしまもか、では1年だけ、と
協力し、その後何年、田んぼを使ってくださった、というエピソードも。
参加する芸術祭の家にとっても、閉ざされた美術館の箱の中でなく、人々が暮らす村落のなかに作品を作ることは。新たなチャレンジであり、かけがいの無い体験だったそう。
参加するアーティストは、世界的なアーティストも多い。リチャード•ウィルソン、ジェームズ•ダレル、草間弥生、カバコフ。アーティストや作品もあげて作品のストーリーもお話しいただきました。
土地の記憶を呼び起こしたり、地域を発見したり、新しい価値を生み出したり。
また、食は、地元の方が主人公で提供しました。芸術祭の回を重ねて、公共事業もアートで作り、恒久の物が増えていったそうです。
その一つが里山現代美術館「キナーレ」。当初原広司の設計で2003年に「越後妻有交流館」として竣工。2012年に同じく原広司によりリニューアルされ「越後妻有現代美術館 キナーレ」として生まれ変わったそう。
カフェが作られたり、作品と共に泊まれる施設がオープンしたり。芸術祭以外の季節も通年楽しめる、観光資源に発展したそうです。
順を追って話を聞いていくと、芸術のもたらしたのは、人々を活気づけ、若い人が地域に入ってきて、凄いパワーを、感じました。
越後妻有トリエンナーレが2回目の時にベネッセの福武総一郎氏が訪ねてきて、3回目から総合プロデューサーとして資金集めなど応援してくださり、直島アートでプロジェクトを、もっと地域を巻き込んだものに発展させるべく瀬戸内芸術祭の準備が始まり2010年から始まったそう。 当時瀬戸内の島々が抱えた問題は、過疎、高齢化、産業廃棄物の島、銅の精錬所、ハンセン病院など、島々が切り離された問題があったそう。
大島には、明治42年にハンセン病の療養所が作られて隔離政策のもと、のべ4000名近い人が入所し、この島で生涯を終えたそう。現在は40人くらいの方が暮らしているそう。
この島にアートを作ることで人が来て、この歴史が新たに人の記憶になる。瀬戸内芸術祭の中で、ここは、特別意味を持った場所で、ここを入れることを北側フラムさんは、芸術祭の条件の一つにしたそうです。
アートは社会問題も投げかけます。
私は、2019年に初めて芸術祭に行って、直島、豊島、犬島を巡り、単純に楽しんでいて。パンフレットで読んで、豊島が産業廃棄物の島だったこと、直島も過疎だったなど、読んではいったものの。
小さい島々も会場にしてある芸術祭の意義は、この時初めて知ることができました。




