またまた時間がかなりたってしまいましたが、先日の真田まつり夏の陣です。
過去の真田夏の陣は鉄砲演武編信綱寺編 参照してください。

真田郷の各地でそれぞれイベントが行われていましたが、午後4時頃になるとそれぞれのイベントは終了していき、終盤は真田運動グラウンドでのイベントが続いてきます。
ここでは道明寺の戦いこちら 参照)を再現した騎馬戦(この戦いは大阪夏の陣に起こった徳川方奥州独眼竜こと伊達政宗と豊臣方真田幸村の戦い)が行われていましたが、諸事情で間に合わず、自分はその次から見る事になりました。




道明寺の戦いの騎馬戦の次は真田おもてなし武将隊によるミュージカルです。
おもてなし武将隊は全国各地にあり、有名なのは名古屋のおもてなし武将隊奥州・仙台おもてなし武将隊、真田おもてなし武将隊かと思います。
簡単に説明してしまうと、名古屋おもてなし武将隊は愛知県名古屋市を中心織田信長を始め豊臣秀吉徳川家康前田利家加藤清正前田慶次と愛知県にゆかりのある武将による人物に扮し、名古屋の観光PRをする人たちです。
奥州・仙台おもてなし武将隊は仙台藩の祖伊達政宗とそれにゆかりのある人物(片倉小十郎伊達成実茂庭綱元など)による仙台観光PRをする人たちです。
(これは一つにまとめてもいいのかな)派生(?)として白石戦国武将隊奥州片倉組と言うのもあり、こちらは白石城を拠点として栄えた伊達家家臣片倉小十郎を中心にゆかりのある人物による構成で、真田幸村猿飛佐助もそのメンバーに居ます。
なぜ真田幸村や猿飛佐助がこの中に含まれているのかと言うと、大阪夏の陣終了直前、幸村は次男片倉守信は伊達家家臣片倉重長にかくまわれ保護されます。
そのため、幸村の血筋は絶えることはなく受け継がれていくことになります。
この縁により、片倉組には真田幸村が登場するのだろうと推測してます(^^ゞ
ちなみに猿飛佐助は真田十勇士の筆頭として有名です。




ずいぶんと脱線してしまいましたが、本題に入ります。
今回の真田おもてなし武将隊は真田氏の拠点上田城およびその周辺の観光PRをする人たちです。


過去の記憶を聞いてみよう
左から望月六郎穴山小助猿飛佐助筧十蔵真田幸村根津甚八三好伊三入道由利鎌之介霧隠才蔵です。
あれ・・・幸村は後ろを向いて才蔵は写ってすらいないな・・・
これではさすがにあれなので・・・


過去の記憶を聞いてみよう
真田幸村さん。


過去の記憶を聞いてみよう
筧十蔵(左)さんと望月六郎(右)さん。


過去の記憶を聞いてみよう
霧隠才蔵さん。


過去の記憶を聞いてみよう
根津甚八(左)さんと穴山小助(右)さん。

過去の記憶を聞いてみよう
三好伊三入道さん。

過去の記憶を聞いてみよう
由利鎌之助(中央)さん。

過去の記憶を聞いてみよう
猿飛佐助(中央)さん。

一応断っておくとその人の本名ではありませんので(^^ゞ



以下簡単な説明しておきます。

真田幸村
言わずと知れた『真田日本一の兵』と云われた人物で有名ですが、名を上げたのは意外にも大阪冬・夏の陣のみで、第二次上田城の戦いでは父真田昌幸の影に隠れ(こちら 参照)、第一次上田城の戦いでは上杉家に人質に出され不参加のため、名を上げる事はありませんでした。



猿飛佐助
真田十勇士の花形的存在で、甲州流忍術の達人です。
山中で猿の群れと戯れているところを戸沢白雲齋に見込まれ、忍術の極意を習得し、鳥居峠で幸村に見込まれ家臣になったと言われています。
また、京都にて南禅寺の山門に住む石川五右衛門と術比べをしたとも言われています。



霧隠才蔵
霧隠鹿右衛門がモデルとされ、もともとは浅井家の侍大将霧隠弾正左衛門の遺児とされ、後に伊賀忍者筆頭百地丹波の弟子となり忍術を覚え、真田十勇士の猿飛佐助のライバルとして幸村の元で活躍していきます。



三好伊三入道
兄三好清海入道の弟で、第二次上田城の戦いにも参戦したと言われています。
敗戦後は幸村と共に九度山へお供し、大阪の陣で徳川方と勇敢に戦っています。
大坂落城後兄清海は腹を切り、自分の首を刀で掻き落とし、伊三は腹を切りながら辞世の狂歌を高らかに詠じたと言われています。



穴山小助
もともとは武田家の家臣で、武田家滅亡後は父と共に真田家の家臣としてなります。
小助は幸村と容姿が似ていたため、影武者として戦場に赴き、大阪冬の陣では真田丸にて六連銭を風になびかせ徳川軍を散々に打ち破り、夏の陣では自ら幸村の名を名乗り、家康本陣に切り込み戦死したと言われています。
ちなみに小助は実在の人物とされています。



由利鎌之助
鎖鎌の達人として知られ、賤ヶ岳の戦いにおいて豊臣方に味方するために出陣してきた真田幸村軍に立ちはだかり、大いに悩ませます。
この時、家臣穴山小助と一騎打ちをした結果敗れたため、幸村の家臣となり、後の大阪冬・夏の陣で活躍をします。



根津甚八
もともとは滋野三家(海野・禰津・望月)の根津家でしたが、父との旅で死別し、後海賊に身を投じ当主の座にまで上り詰めます。
幸村が秀吉から熊野水軍の情勢を探るよう命じられた時二人は巡り逢い、十勇士に名前を連ねます。
その後は関ヶ原、大阪冬・夏の陣に活躍し、夏の陣では影武者として徳川軍に突撃し、討死をします。


望月六郎
滋野三家の一つ望月家の出で、弾薬に長けていたと言われ、幸村の九度山蟄居の際も九度山真田屋敷の留守居役とともにそこでも弾薬の製造に務め、大阪夏の陣では影武者として徳川の大軍に囲まれ自刃したと言われています。


筧十蔵
豊臣譜代蜂須賀家家臣でしたが、幸村が大坂城に赴いた時、その人柄にほれ込み幸村の家臣になることを志願し、それ以降幸村の家臣になります。
鉄砲の名手とされ、大阪夏の陣に参加し、その際幸村と共に薩摩に落ちのびたとも言われています。



過去の記憶を聞いてみよう

こちらは『さニャだ幸村』こと『ゆきたん』で上田の隠れゆるキャラの一人(?)です。
上田で日々貧乏神と戦い、信州リンゴと真田とうふが大好物とか。
ゆきたんは真田幸村と三毛猫をモチーフにしたゆるキャラで(三毛猫なのに雄です)、彦根のゆるキャラ『ひこにゃん』をライバル視しているとか。
最近では名古屋や横浜などにも出張しているらしい。
ちなみにコーエーのゲーム『のぶニャがの野望』にも『さニャだ幸村』と言うキャラは出てきますが、全く関係ありません。
愛称の『ゆきたん』はこれと区別するために付けられたとか。