1587年7月24日(天正15年6月19日)は豊臣秀吉が行った代表的な政策の一つであるバテレン追放令を発令した日にあたります。

ちなみに秀吉の代表的な政策としては他には『太閤検地』『刀狩』などがあります。




バテレンとは、ポルトガル語で『神父』を意味する言葉からきていて、このバテレン追放令は筑前箱崎(現:福岡県福岡市東区)に発令され、キリスト教宣教と南蛮貿易に関する禁制文書を指します。




秀吉は主君織田信長の跡を継ぎ、秀吉もキリスト教布教を容認していました。
実際1586年(天正14年)には大坂城にイエズス会宣教師ガスパール・コエリョは秀吉と謁見を許され、正式にキリスト教布教の許可を得ましたが、翌年1587年(天正15年)の九州征伐を終えた秀吉は突如手のひらを返し、バテレン追放令を発布して、布教責任者であったコエリョを召喚して叱責し、宣教師の退去と貿易の自由を制限しています。
具体的な内容として、神国である日本での異教を広げる事はふさわしくないこと、領民などを集団で信徒にすることや神社仏閣などの打ち壊しの禁止宣教師の20日以内の国外退去を記していますが、実際には南蛮貿易を妨げるものではなく、布教に関係ない外国人商人の渡来に関してはほとんど規制を設けてはいません。
この機に乗じて宣教師に危害を加えたものは処罰すると言い渡していたため、強制的にキリスト教への改宗をさせる事は禁止していましたが、個人の意思でキリスト教を信仰することは規制しておらず、大名がキリスト教信者になるのも許可制(秀吉の許可要)でしたが、禁止とまではいきませんでした。
また、下層の民については自由であることを定められ、こちらはほとんど規制はありませんでした。
そのため、このバテレン追放令は後の江戸時代にも似たような禁止令が発布されますが、秀吉の方はそこまで厳しいものではありませんでした。
実際江戸時代の方は長崎の出島でしか海外貿易(オランダ・中国のみ)を許されず、またキリスト教弾圧のため『踏み絵』を用いて隠れキリシタンを見つけ処罰を行ったり、さらには国外に居た日本人ですら帰国を許されず、海外で生涯を閉じた者たちもいます。




秀吉が追放令を出した理由としては諸説あり、代表的なものとしては

1.キリスト教が拡大し、一向一揆のような反乱を起こすことを恐れたため。

2.神道・仏教への迫害を好まなかったため。

3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。

4.秀吉が有馬の女性を連れてくるように命令した際、女性たちがキリシタンであったことを理由に拒否されたため。

などがあります。



1.については秀吉の主君信長が石山一向一揆との戦いに苦戦を強いられ、さらには信長の兄弟も一向一揆衆に殺されたりしています。
一向一揆に関してはその構成員はほとんどが身分の低い農民たちでしたが、キリスト教に関しては大名にまで広まっていたため、仮にキリシタンたちが蜂起すれば由々しき事態になると考えたためです。
また、キリスト教布教によって世界各地を征服した実績があり、日本もその征服計画があったとも言われていました。
秀吉がこのような考えに至った経緯としては、九州征伐の際秀吉の目の前で、コエリョがスペイン艦隊が自分の指揮下にあることを誇示したためだと言われています。
コエリョのこの行為についてイエズス会東インド管区巡察師として日本に来ていたアレッサンドロ・ヴァリニャーノコエリョの軽率な行動を厳しく非難したと言われています。




2.のキリシタンによる新道・仏教への迫害については、九州において領民を強制的にキリスト教に改宗させたり、神社仏閣を破壊する行為がキリシタン大名有馬氏や大村氏など大名単位に行われ、迫害されていた事は事実でした。




3.の人身売買に関しては、11カ条の『覚書』に、日本人を南蛮に売り渡すことを禁止するという一文がある一方、『追放令』にはそのような一文は見当たりません。
秀吉は九州征伐の際、九州を中心として奴隷貿易が行われていたことについては当時のイエズス会布教責任者コエリョを呼び詰問すると同時期にバテレン追放令が発布されています。
ただ、ポルトガルは1571年に当時の王セバスティアン1世日本人貧民の海外売買禁止の勅令を発布されていますが、奴隷貿易は根絶にまでは至りませんでした。
実際に当時の秀吉がこの事を知っていたかどうかは不明である点には留意が必要です。




4.の女性問題で秀吉が激怒したというのは、正確に言うと『女を連れていこうとした施薬院全宗が怒って、秀吉にキリシタンを悪く言った』と言うもので、『秀吉が女漁りを邪魔されて怒った』と言うのは誤りとなります。
そのため、これが理由とは考えにくくなります。




このバテレン追放令は多くのキリシタン大名に影響を及ぼし、秀吉の側近の黒田孝高は真っ先に棄教するなどしたりしますが、中には棄教しなかった大名もいます。
その有名な人物としては高山右近がいます。
彼は秀吉からその才能を惜しみ、茶道の師匠である千利休を遣わせてキリスト教の棄教を促しますが、『主君の命令に背いても志を変えないのが真の武士』と答えています。
そのため、右近は全ての財産を捨ててまでキリシタンを貫き通した事で世間を大いに驚かせたと言われています。
後に右近は江戸時代に入ってもキリスト教を棄教することをせず、とうとう国外追放までされてしまうほどでした。