なかなか更新することができず、今回は甲府城の外曲輪あたりの紹介とさせていただきます。
過去の記憶を聞いてみよう

甲府市の名所です。

甲府市は戦国時代の名門武田氏にゆかりのあるところが数多く点在しています。

これらを一日で回るのは…まず不可能でしょうねあせる


公園の概要
やまなしの歴史文化公園『武田の杜・甲府城跡』は、東端を積石塚古墳の散在する甲運地区、北端を山梨市との境になる太良峠、西端を千代田湖のある健康の森とする甲府市街地北部に広がり地域です。
指定地域内では、武田氏館跡や要害山をはじめとする武田氏にゆかりの深い史跡や文化的遺産が数多くあります。
また、県民の憩いの場として親しまれている甲府城跡や愛宕山こどもの国、遊歩道が整備された武田の杜などがあり、これらを取り巻く秩父多摩甲斐国立公園の前衛の山々と一体となって素晴らしい景観を示しています。
緑豊かな美しい自然景観の中に数多くの歴史的遺産や文化的遺産が広がるこの地域は、自然とふれあいながら、歴史文化を学ぶことのできる公園です。
山梨県・甲府市



甲府城の簡単な説明です。

甲斐国は、天正10年3月(1582年)武田家滅亡後は、織田信長徳川家康(城代平岩親吉)の時代を経て、天正18年(1590年)豊臣秀吉の支配となり、羽柴秀勝加藤光泰浅野長政幸長親子により治められました。
甲府城は慶長5年(1600年)頃に浅野氏により完成したと考えられます。
関ヶ原の戦い後は徳川義直(家康の九男)、忠長(2代将軍秀忠の三男)、綱重(3代将軍家光の三男)、綱豊(後の6代将軍家宣)ら徳川家一門が城主となり城番・城代制がしかれました。
宝永2年(1705年)には、徳川家以外の大名として武川衆出身柳沢吉保吉里親子が領主となり、この時期に城下町も大きく展開しました。
柳沢氏の大和郡山移封後は、甲府勤番制となり、また大火にもおそわれ、次第に壮麗な姿は失われて行きました。
明治時代には廃城となり、建物はほぼなくなり、葡萄酒醸造所が造られるなどして、明治37年(1904年)に舞鶴公園として開放されました。
大正6年(1917年)に明治維新後陸軍省所管なっていた甲府城跡を、甲府市(旧柳町在住)の村松甚蔵氏の寄付をもとに払い下げを受けて県有地としました。
戦後の市街地復興に併せて公園整備を進め、昭和39年(1964年)に都市公園『舞鶴城公園』として都市計画決定され、昭和43年には県の指定史跡となりました。
その後広く県民に利用されてきましたが、施設の老朽化などの理由により、昭和60年代に入り公園の改修を求める声が高まってきました。
そこで山梨県は、平成2年から舞鶴城公園整備事業を実施し、石垣の改修、園路・広場の再整備、堀の浄化、占用物件の移転、門(鍛冶曲輪門・内松景門・稲荷曲輪門)や塀の復元、稲荷櫓の建設などをおこないました。
またそれに伴う発掘調査で、本丸や天守台の周辺からは金箔を貼った鯱瓦、鬼瓦が多く出土しました。
山梨県県土整備部・山梨県教育委員会




過去の記憶を聞いてみよう
現在の甲府城のマップです。

今回は右下にある鍛冶曲輪門から入城しました。



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鍛冶曲輪門
鍛冶曲輪と楽屋曲輪をつなぐ門です。
明治の初めまでは残っていたものを絵図や発掘調査の成果をもとに、平成8年に復元しました。



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門を抜けたところから撮った写真です。



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現存する甲府城唯一の堀です。



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鍛冶曲輪門から鍛冶曲輪に抜ける際にある日本庭園にある鍛冶曲輪の井戸です。



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ちなみに井戸の中をパシャりしてみました。

あまり面白い絵ではないですよね汗



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こちらが日本庭園です。

日本庭園の特徴としては白い石で水を表し、大きな石で島などを表すのはおなじみで、こういうのを見るとなごみますねニコニコ



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現存する堀がないため、唯一の橋である遊亀橋です。



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舞鶴城で象徴的とされている舞鶴の噴水です。

こちらは戦後取り壊されたものを再現されたものです。


舞鶴の噴水再現移置について
大正天皇御即位記念として謝恩碑東側の池にありました舞鶴の噴水は舞鶴公園の象徴として市民に親しまれていましたが、戦争のため取壊されてより四十年経た今日山梨県かいじ団体の記念事業として歴史文化財保存の一環として甲府市婦人連合会が広場の池に舞鶴の噴水再現をめざして会員こぞって募金活動に尽力し、多くの市民と協賛団体の温かい援助を得てここに噴水の再現移置が実現しました。



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鍛冶曲輪の跡地で今では自由広場とされています。

また、ここは昔の勘定所の跡地ともされています。

会所(勘定所)跡
江戸時代の後半ぐらいから絵図に描かれる役所で、年貢や作事・普請(工事)に関わる事務を取り扱う場所と思われます。
地下には、建物の遺構が多く残っています。




今回はここまでですみません。

続きはまた後ほど更新します。