1575年6月29日(天正3年5月21日)は戦国時代の合戦を変えたとして有名な長篠の戦いが行われた日にあたります。

一般的には長篠の戦いと言いますが、信長軍が設楽原に陣を敷いて戦ったため、長篠設楽原の戦いと呼ぶこともあります。




この戦いは戦国三傑の一人として有名な織田信長を知るうえでは欠かすことのできない戦いの一つです。
ちなみに織田信長の三大戦争としては(自分の中では)桶狭間の戦い桶狭間1桶狭間2桶狭間侵攻の理由桶狭間場所と攻撃方法 参照)、本能寺の変本能寺の変本能寺の変が起こった理由本能寺の変諸将の影響 参照)、そしてこの長篠の戦いかと思います。
長篠の戦いは織田・徳川連合軍が当時最強と言われていた武田騎馬隊を完膚なきまでに壊滅させた事で有名な戦いです。




長篠の戦いは少し話は遡り、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り天下にその名を轟かせた織田信長は、隣国美濃を落とし、足利義昭を擁して上洛を果たします。
その頃武田信玄甲相駿三国同盟の一つである駿府の今川氏との同盟を破棄し、三河の徳川家康と共に今川氏を滅ぼし駿河は武田氏が、遠江を徳川氏が領します。
しかし、両家の同盟は長くは続きませんでした。
元亀2年(1571年)には足利15代将軍足利義昭と信長の仲が悪くなり、義昭は信長に対し挙兵します。
また、信長は義昭の挙兵により畿内の大半の大名を敵に回すことになります(第二次信長包囲網)。
これに呼応する形で信玄は包囲網に応じ、上洛を決行します(西上作戦)。
信玄は家康を三方ヶ原の戦い三方ヶ原その1三方ヶ原その2三方ヶ原その3浜松巡りその1浜松巡りその2浜松巡りその3 参照)で完勝し、さらに三河にまで侵攻していきます。

この西上作戦の過程で、遠江国に高天神城と言う城がありますが、この城が後の長篠の戦いに影響を与えていきます。
ちなみに西上作戦の時は信玄はこの高天神城を落とすことができませんでした。
しかし、信玄は三河国に差し掛かった頃、病に倒れてしまい、武田軍は自国甲斐に全軍帰国することになります。


一方の信長は、信玄が撤退したことを知り一気に浅井・朝倉氏を滅ぼし浅井滅亡朝倉滅亡 参照)、さらに将軍義昭を京から追放します。

武田軍撤退により、家康は三河・遠江の失地回復に努めていきます。
天正元年(1573年)8月には、徳川方から武田方へ寝返っていた奥三河の国衆奥平貞昌(後の奥平信昌)は、信玄の遺言により隠されていた信玄の死を家康に伝え、再び徳川方へ付き、家康は武田氏より奪還したばかりの長篠城に配します。
これは武田方から裏切った貞昌を対武田の前線に置き、本当に徳川方についたのかを確かめるという意味もあります(当時ではよく行われていた処置です)。
後を継いだ武田勝頼は再び遠江・三河の侵攻を開始し、天正2年(1572年)5月、信玄以上の勢力拡大を目指す勝頼は、2万5千の大軍を率いて高天神城攻略にかかります。
高天神城は家康に救援を求め、家康からも信長に援軍を要請します。
しかし、高天神城は信長の援軍が到着する前に落城してしまい(第一次高天神城の戦い)、信長は勝頼と戦えなかったことを無念に思い、家康は兵糧代として大量の黄金を信長に贈ります。
実はこの高天神城の戦いは後の長篠の戦いの敗因の一つと数えられています。
それと言うのも、先に少しかかりましたが、この城は父信玄ですら落とすことが出来なかった要塞であったため、甲陽軍鑑によれば勝頼はこの時から自信過剰になり、家臣の話すら聞かなくなってきたと言われています。
また、この高天神城は後の武田氏滅亡の引き金にも大きく関与することにも繋がります。
高天神城を落とした勝頼は、今度は武田方から徳川方へ内通した奥平氏が治める長篠城に攻撃対象を定め、天正3年4月に大軍を率いて三河に侵攻し、5月には長篠城を包囲します。




城を包囲されてしまった貞昌は家康の元へ援軍を要請しようとしますが、武田軍の包囲は完璧なもので、これを潜り抜けて援軍を要請するのは難しいものがありました。
しかし、援軍を要請しなければ落城するのも時間の問題と考えた貞昌は、家臣鳥居強右衛門に家康に援軍を要請するという重要な使命を与え、強右衛門はうまく武田軍の包囲網を潜り抜け、約65km離れた岡崎城の家康の元へたどり着きます。
実はこの頃、家康はすでに信長にも援軍を要請していて、強右衛門が岡崎に着いたころには信長は3万の軍勢を率いて岡崎城に到着して、家康と作戦を練っているところでした。
長篠城の状況を聞いた家康と信長はすぐに援軍を派遣することを約束し、この朗報をすぐに長篠城に伝えるため、強右衛門はすぐさま元来た道を戻ります。
この時、信長は強右衛門に対し、


『遠路走りっぱなしで疲れているだろうから休んでいくがよい、伝令はこちらで用意する。』

と引きとめますが、

『長篠城は今つらい時期にありますゆえ、自分だけゆっくり休んでいるわけにはいきません。
またよく知っている自分が行った方が長篠城の士気が上がります。』

と言いすぐさま岡崎城を出発します。
ちなみに、強右衛門は長篠城と岡崎城を1日で往復したと言われ、総距離130km走ったことになります。
まさに太宰治の小説走れメロスですね。




長篠城へ着いた強右衛門は再び長篠城へ潜入を試みますが、途中武田軍に見つかってしまい、捕えられてしまいます。
捕えられた強右衛門は当然武田軍から拷問を受け、勝頼は信長・家康が援軍に駆け付けてくることを知ります。
すぐに落とさなければ不利になると考えた勝頼は強右衛門に脅迫し、磔にした状態で長篠城兵に向けて『援軍は来ない』と言うように仕向け、強右衛門はそれに承諾します。
長篠城内では強右衛門が磔にされているのを見て、ざわめき始めます。
そして強右衛門が長篠城に向けて発した言葉は

『長篠城は見捨てられて援軍は来ないから、あきらめて城を明け渡せ。』

ではなく、

『援軍は後2・3日で来るから持ちこたえてくれ』

でした。
これには勝頼は大激怒し、長篠城兵が見守る中槍で殺してしまいます。
長篠城兵は強右衛門の命を賭した忠義と壮烈な死に様を見届け、強右衛門の死を無駄にしてはならないと大いに士気を奮い立たせ、援軍が来るまでの二日間を見事武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功します。
また、強右衛門の死を知った家康と信長は、その忠義により大いに士気が上がります。




両軍の激突はまた後ほど書きます。