1716年6月19日(正徳6年4月30日)は徳川幕府第7代将軍徳川家継の命日にあたります。




家継は宝永6年(1709年)7月3日、徳川幕府6代将軍徳川家宣の4男として生まれます。
家宣は5男1女とあまり子宝には恵まれませんでした。
長女豊姫生まれてから2カ月で早世し、長男夢月院に関しては生まれた日に早世しています。
その不幸はさらに続き、次男徳川家千代2カ月の早世、三男徳川大五郎1年6カ月、5男徳川虎吉2カ月と生まれてくる子どもはことごとく早死にをしています。
また、父家宣も正徳2年(1712年)に病に倒れこの世を去ります。
家宣は死ぬ前に新井白石間部詮房を呼び寄せて、

『次期将軍は尾張の徳川吉通にせよ。家継の処遇は吉通に任せよ。』
『家継を将軍にして、吉通を家継の世子にして政務を代行せよ』

という2つの遺言をしています(折たく柴の記)。
家宣死後白石は

『吉通公を将軍に迎えたら、尾張からやってくる家臣と幕臣間で争いが起こり、全国に広がるかもしれない』

と考え、

『鍋松君(家継)を将軍として自分たちが後見すれば、少なくても争いが起こることはない』

として、家継の擁立を進めていきます。
ところが、幕閣の間では

『鍋松君は幼少であり、もし跡継ぎが出来なくこの世を去られたらどうするおつもりか』

と反対意見もありましたが、白石は

『その時は当初の掟通り御三家の吉通公を迎えればよい』

と説得しています。
ちなみに、徳川幕府では将軍の宗家が絶えた場合、水戸藩尾張藩紀伊藩(これらを徳川御三家といいます)から跡継ぎを選ぶことになっています。
また、一説では家宣が

『家継の成長が見込めなかった場合、吉通の子五郎太徳川吉宗の嫡男長福丸(後の徳川家重)を養子として、吉通か吉宗に後見させよ』

と遺言したとも言われています。
家宣死後の正徳3年(1713年)4月2日、鍋松は家継と改名し、将軍宣下を受けてわずか4歳で第7代将軍に就任(史上最年少で任官した征夷大将軍)します。




家継は詮房や白石とともに、家宣の遺志を継ぎ、正徳の改革を続行していきます。
(正徳の改革は後の8代将軍吉宗が行った享保の改革の礎となっていきます。)
白石は家継に帝王学の教育などを行い、家継はいろいろ覚えていき、その才覚を認めていきます。
しかし、正徳6年(1716)年3月病に倒れてしまい、そのまま家継は早世してしまいます。
家継の死により、徳川幕府3代将軍徳川家光の系統は断絶し、8代将軍は紀伊徳川家より藩の財政を回復させた事で評価が高かった徳川吉宗が迎えられました。




愛知県の大樹寺と言うところがありますが、この寺は歴代徳川将軍の位牌があり、これは将軍の臨終時の身長にあわせて作られているという俗説があります。
ここに建てられている家継の位牌は135cmあり、家継は巨人庄ではないかと言う説もあります。




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