1634年6月18日(寛永11年5月23日)は宇喜多秀家の正室豪姫の命日にあたります。




お豪は前田利家おまつ(芳春院)の四女で、天正2年(1574年)尾張国荒子(愛知県名古屋市)で生まれます。
当時なかなか子供が出来なかった羽柴秀吉寧々(高台院)との仲を深めるため、養女に出します。
豪姫は秀吉の養女として大いに可愛がられ、秀吉夫婦に寵愛されたといわれていて、秀吉は


もし豪が男だったら関白にしたものを


と寧々に綴っているほどでした。
天正16年(1588年)に15歳にして岡山城主宇喜多秀家に嫁ぎ、二男二女の子をもうけます。
しかし、秀家夫婦に転機が訪れる事になります。
慶長5年(1600)年9月15日、秀家は関ヶ原の戦い午前編午後編 )で石田三成ら西軍に属したため、徳川家康敗れた西軍は戦後大幅に改易させられ、これは宇喜多氏も例外ではありませんでした。
戦後秀家は薩摩に潜伏して島津氏に匿われ、家康の探索を避けるために秀家は死んだという情報を流します。
しかし、慶長7年(1602年)匿っていた島津氏は家康に降ったため、秀家は家康のもとに引き渡され、息子2人と共に慶長11年(1606年)に八丈島に流罪(島流し)にされてしまいます。
当時流罪は死罪に次いで重い刑とされています。




離れ離れにされてしまった秀家とお豪。
お豪は2人の娘と数名の家臣と共に兄の前田利長の元へ戻され化粧料1500石を与えられます。
当時の金沢はキリシタン大名として名高い高山右近が客将として住み、多くの藩士が右近の影響を受けていました。
そのため、お豪も家臣と共に洗礼(洗礼名マリア)を受けたと言われています。
ちなみに、お豪は秀家が流罪にされてからも再婚をすることなく、それどころか秀家の事を思い続け、死ぬまでお豪は八丈島に賂を送り続けています。




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