1565年6月17日(永禄8年5月19日)は室町幕府13代将軍足利義輝松永久秀および三好三人衆(三好長逸三好政康岩成友通)らに二条城御所で襲われ自害する事件が起こった日にあたります(永禄の変)。




話は少し遡り、三好家の当主細川家は管領職争いのため、畿内を転戦し、細川晴元三好元長三好長慶の父)の功績により管領職に就くことが出来ました。
しかし、元長は晴元から危険視されてしまい、享禄5年(1532年)6月には晴元と手を組んだ一向一揆に攻められ、元長は自刃します。
これにより、長慶は足利将軍家や晴元と対立しながら、着実に勢力を伸ばしていきます。
ついには天文18年(1549年)、晴元の側近で同族の三好政長を討ち取った長慶を恐れた晴元は、義輝と大御所足利義晴(足利12代将軍)を連れて近江坂本へ逃れた事により、実質細川政権は崩壊し、新たに三好政権がここに成立します。
天文22年(1553年)には義輝も反撃を試みますが、逆に近江朽木へと追いやられてしまい、三好氏は畿内実力者として絶頂を極めていきます。
しかし、当時の京都の支配は、将軍と対立したまま維持することは困難を極め、また、近隣の六角氏や畠山氏などから攻撃を受け続け、安定する事はありませんでした。
永禄元年(1558年)には義輝と近江守護六角義賢の攻撃により長慶は和睦し、幕府相伴衆に就きます。
相伴衆に就くと言う事は実質上幕府の臣下となり幕府政治機構に取り込まれることを意味しています。




長慶にとって災難は続き、実弟十河一存三好義賢、嫡男三好義興など有力な一族が相次いで亡くなり、さらには最後まで支えていた弟安宅冬康自らの手で暗殺し、弱体化はさらに進んでいきます。
そして永禄7年(1564年)には長慶自身も亡くなり、より一層弱体化は進んでいきます。
一方義輝は全国の大名に対して合戦の調停を行ったり、幕府の役職を与えたりするなどして、幕府の回復を進めていきます。
また、政所執事の伊勢貞孝を敗死に追い込み、義輝の義従兄弟にあたる摂津晴門を起用し、将軍の意向に及ばなかった政所を掌握し義満以来の聡明な将軍として幕府の将軍親政を取り戻していきます。
しかし、せっかく力をつけてきた三好氏にとっては危機感を感じ、三好家中の実権を長慶の甥で後継者の三好義継に代わって牛耳っていた松永久秀および三好三人衆は、将軍の根本的排除(将軍暗殺)に向かっていくことに繋がっていきます。




三好方の動きは義輝にも伝わっていき、謀叛に備え二条御所の四方の堀・土塁等を堅固にする工事を施していきます。
事件前日の永禄8年5月18日には、義輝は難を避けて京を離れるために御所を脱出します。
しかし、義輝の近臣は京から避難することは将軍の権威を失墜させると反対し、なにかあった時は義輝と共に討死覚悟であることを示し、義輝は不本意ながら御所へと戻っていきます。
一方三好・松永らは改修工事が済む前に包囲するため、5月19日に清水寺参詣を名目とし、約1万の軍勢を集結して御所に押し寄せ、将軍に訴訟があると偽って取り次ぎを求めます。
奉公衆進士晴舎が訴状の取り次ぎに往復する間、三好・松永の鉄砲衆は四方の門から侵入し攻撃を開始します。
この時の将軍の応戦は凄まじく、十数名で三好方数十人を討ち取ったりします。
殿中では敵の侵入を許してしまった進士は御前で切腹し、義輝は近臣たち一人一人と最後の杯を交わし終え、主従30人ほどでこれに迎え撃ちます。
治部藤通の弟福阿弥は、鎌鑓で数十人を討ち取ります。
また将軍義輝は剣豪塚原卜伝から剣術を教わり、免許皆伝を受けているという剣術の達人でした。
義輝は足利家に伝わる数多くの銘刀を床に突き立て、切れ味が落ちたら床に挿していた銘刀と交換しながら敵兵を次々に切り倒し、この奮戦振りには三好方の兵たちは大いに恐怖を与えたと言われています。
しかし、多勢に無勢。
昼頃には周りの従者たちは全員討ち死にし、生母の慶寿院も自害します。
義輝の正室は近衛家へ送り届けられたが、義輝の寵愛を受け懐妊していた側妾の小侍従は殺害されます。
両方の衝突に関しては、三好・松永らは実際に訴訟の取り次ぎを求めて御所を訪れたのですが、取り次ぎの際の祖語から両方の衝突が起こってしまったとし、最初から将軍暗殺を計画していたわけではないとする説もあります。




この事件後すぐに久秀らは義輝の弟で鹿苑院院主周暠を殺害し、もう1人の弟で大和興福寺一乗院の門跡覚慶を幽閉します。
しかし、2ヶ月後の7月28日に覚慶は義輝の近臣一色藤長細川藤孝らによって脱出し、翌年2月に覚慶は足利義秋(後に義昭と改名します)と名乗り、越前朝倉義景を頼ります。
一方、三好三人衆は義輝兄弟の従弟にあたる足利義親(後に義栄と改名します)を淡路で擁立し、摂津富田に入ります。
しかし、この後、三好三人衆と松永久秀はお互い対立関係に発展していきます。

この後の久秀と三好三人衆との対立はこちら 参照してください。




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