前回の賤ヶ岳の戦いの続きです。

前回のはこちら 参照してください。




3月12日、柴田勝家前田利家佐久間盛政ら3万の軍勢を率いて近江国柳ヶ瀬に布陣をします。
勝家の布陣を聞いた羽柴秀吉は、長島城の包囲を織田信雄と蒲生氏郷の1万の軍勢に任せ、自らは5万の兵を率いて木の本に布陣します。
その後はしばらく睨み合いが続きます。
また、秀吉側についていた丹羽長秀は勝家の西進に備え海津と敦賀に兵を出したため、戦線は膠着し、3月27日秀吉は一部の軍勢を率いて長浜城へ帰城します。
4月16日、一度秀吉に降伏した織田信孝伊勢の一益と手を結び再び挙兵したため、秀吉は岐阜城下へ進軍をします。
これにより秀吉は近江の勝家、伊勢の一益、美濃の信孝の3方面を同時に相手をしなければいけない状況に陥り、また揖斐川の氾濫により大垣城へ入城します。
秀吉の軍勢の多くが近江から離れたことを好機とした勝家は、盛政の中川清秀砦急襲作戦を採用し(当初は勝家は反対しています)、盛政はこれを落とし(前哨戦は勝家の勝利)、さらに岩崎山に陣取っていた高山右近を攻撃し、これに勝利し右近は木の本の羽柴秀長の陣に退却します。
盛政の作戦には勝家は承諾をしていましたが、実はある条件のもと承諾をしていました。
それは、『中川の砦を落としたらすぐに戻ること』と言うのが条件でしたが、盛政は戻らなかったため、勝家は撤退命令を出します。
しかし、盛政はこれを拒否し4月20日賤ヶ岳砦を落とそうと包囲します。
桑山重晴に対して降伏するよう促し、重晴は降伏するから日没まで待ってほしいと返答します。
賤ヶ岳砦の陥落まで後数時間と言うところで、琵琶湖を渡って長秀が増援として現れ、日没には退去するはずだった桑山隊と合流をしてしまったため、攻略に失敗してしまいます。



勝家側が動き出した事を聞いた秀吉は軍を近江に返します。
この時秀吉は大垣から木の本まで丘陵地帯を含む52kmの距離を5時間で移動したと言われています。
居るはずのない相手が突然目の前に居ると言うのは脅威を感じるもので、盛政は20日深夜撤退を開始しますが、翌日未明に秀吉らの大軍に強襲をかけられます。
盛政は奮戦し、さらに柴田勝政の救援もあり撤収に成功したため、秀吉は勝政に攻撃対象にしたため、今度は勝政に盛政軍が救援をしたりと両軍が激戦となります。

ところが戦況は一気に変わる出来事が起こります。
柴田軍として参加していた前田利家が突如戦線離脱をしてしまいます。
利家の戦線離脱には諸説ありますが、一般的な説としては、秀吉とは信長の部下時代からの親友であると同時に、勝家とは主従関係にあったため、この相関関係に耐えきれず離脱したというのが一般的な説です。
これにより利家と対峙していた秀吉軍が柴田軍に攻撃を仕掛けます。
さらに利家に続き、柴田軍の不破勝光金森長近の軍勢も撤退したため、対峙していた秀吉軍がまた雪崩れ込んできたため、持ちこたえることが出来なくなり柴田軍は総崩れし、勝家は居城北ノ庄城に退却します。




勝家は北ノ庄城へ退却をしましたが、4月23日に前田利家を先鋒に秀吉軍に包囲され、翌日お市の方と共に自害します。
また、勝家の後ろ盾を失った信孝は秀吉に付いた織田信雄に岐阜城を包囲され降伏し、4月29日信雄の使者により切腹を命じられ自害します。
伊勢の一益はさらに1ヶ月間対抗しますが、ついに開城し出家して長秀の元、越前大野で蟄居します。


この戦いにより、信長の勢力をまるまる秀吉が引き継ぐ形になり、秀吉の天下統一の道が始まっていきます。

この戦いの2日後に、秀吉は中国地方で中立を保っていた毛利輝元を服属を促し、戦後処理終了後、秀吉は石山本願寺後に大坂城の築城を開始し、5月には朝廷から従四位下参議に任命されます。
また、秀吉のもとに徳川家康上杉景勝・毛利輝元・大友義統などが相次いで使者を送り、戦勝を慶賀し親交を求めたことにより秀吉の畿内権力把握を象徴することになります。
この戦いで秀吉側についた旧織田家臣であった丹羽長秀・池田恒興森長可蒲生氏郷などは大幅な加増を得ています。




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