先日大坂夏の陣最後の戦いとなった天王寺・岡山の戦いを紹介しましたが、実はこれの屏風が残っています。


過去の記憶を聞いてみよう
大坂の陣左隻屏風です。

画像アップのために解像度低いものをwikiから持ってきましたのでちょっと見にくいかもしれません。

なのでこれは参考までにしてもらえればと思います。



この屏風は福島藩主黒田長政が書かせたものとして知られ、大坂城を中心に右隻には天王寺・岡山の戦いの激闘が描かれ、左隻には戦場から避難しようとする非戦闘員とそれを生け捕る幕府軍、さらには野党たちが人さらいや身ぐりみをはがしている姿が描かれています。



一番右端の下から二番目にある部隊が徳川家康本陣です。
馬に乗り軍配で指揮を執っているのが徳川家康です。
屏風には家康は鎧兜で身を固めていますが、この時は自分自身戦う事はないと踏んでいたため、鎧兜を付けてはいなかったと言われています。



一番右上に居る部隊が徳川秀忠本陣です。
ここでは打ち取った豊臣方の兜首の記録が行われています。
馬上に居るのがこの時期将軍職に就いている秀忠です。




家康本陣のすぐ左に居るのが徳川義直隊です。
徳川の家紋三つ葉の葵が目立ちます。
赤い鎧を着て黒馬に乗っている若武者が義直です。



家康本陣と義直隊の下に居るのが紀伊藩祖・徳川頼宣隊で黒い馬上の若武者が頼宣です。



右下にある鳥居は住吉大社の鳥居です。
ここから前方に伸びているのが佐竹義宣隊で、義宣は大坂冬の陣において今福の戦いなどで活躍をします。
実際には夏の陣には参加をしていないと言われています。



家康本陣左上に居るのが伊達政宗隊・松平忠輝隊です。
先頭で釣鐘の旗印を掲げているのが片倉小十郎重綱で、前日の道明寺の戦いでは豊臣方の後藤基次を打ち取ったり、真田軍と激突をしています。
少し後ろに居る白馬に乗っているのが伊達政宗、その後ろに居るのが松平忠輝です。




一番上の右から二番目に居るのが藤堂高虎隊です。
高虎は幾度となく主君を変えたことでも有名で、ここでは部隊のやや中央で刀に手をかけている姿で描かれています。



藤堂高虎隊の左上に居るのが前田利常隊で、豊臣方の大野治房隊と前衛部隊同士が鉄砲の打ち合いをしています。
母衣衆に守られているのが利常で、利常は前田利家の子で秀忠の娘婿です。
ちなみに母衣衆とは、背中に大きな袋を背負い伝令として部隊間を走ると同時に、背中の袋で後ろからの矢を防いだり、その派手さから自軍をアピールします。
父利家は信長の稲葉山城攻略の際、その手柄として母衣を許し、戦場でも派手に戦っていました。




前田隊の下に居るのが井伊直孝隊で、彦根城のゆるキャラとして有名なひこにゃんは直孝の招き猫エピソードがモデルとされています。
やや中央で馬に乗り、赤い鎧を着ているのが直孝です。



下から二番目の先頭に居るのが小笠原秀政隊で、秀政は信濃守護を勤めた名族の出です。
秀政は毛利勝永勢と戦いで戦死を遂げます。



その後ろに居るのが松平忠明隊で、忠明は家康の外孫にあたります。



伊達政宗・松平忠輝隊の左に居るのが越前松平忠直隊です。
忠直は前日に軍率を守り無用な戦いをしなかったが、そのため援軍を送ることをしなかったため叱責を受けたため、この戦いでは抜け駆けをし、豊臣方でも士気が高かった真田隊に突撃を仕掛けます。
黒馬で指揮を執っているのが忠直です。
忠直の先陣は豊臣軍と激突を繰り広げています。



忠直隊に応戦するのが豊臣方で冬の陣の籠城戦でその名を轟かせた真田信繁幸昌隊です。
馬に乗り鹿の角の兜をかぶり指揮を執っているのが信繁で、少し後ろに居る白馬に乗っている青年が信繁の長男幸昌です。
この部隊は鎧兜そして旗印も赤一色で統一しているのがよくわかり、目立ちます。
その戦いぶりは『真田日本一の兵(つわもの)、古よりの物語にこれなき由。徳川方半分敗北。』と言わせるほどの奮戦をしています。
また、この時の信繁の活躍は他の書物にも多く紹介され、大坂の陣終了後、その武功をあやかろうと緒将が信繁の首から遺髪をこぞって取り合ってお守りにしたと言われています。
また、嫡男幸昌は信繁と共に徳川方に突撃を申請しますが、信繁は大坂城に送り秀頼と共にすることを伝え、別れます。
そして、秀頼が自刃したのを見届けてから幸昌も自刃して若い生涯を閉じます(享年13歳)。



中心の鳥居(天王寺の石鳥居)を挟み上に陣を構えているのが毛利勝永隊で、井伊直孝隊と応戦しています。
また、真田隊と毛利隊の間に居るのが本多忠朝を追い詰めている毛利勢で、鹿の角の兜を付けているのが本多忠朝で、この時討死を遂げます。
勝永の活躍がなかったら、信繁隊の家康本陣突撃もなかったかもしれません。



勝永隊の上に陣を敷いているのが大野治房隊で、治房隊は将軍秀忠本陣にまで雪崩れ込み大混乱に陥れる活躍ぶりを見せています。
治房隊やや中心より後ろで白馬にまたがり赤い兜をかぶっているのが治房です。



勝永隊の後ろで上から3番目の部隊が豊臣秀頼本陣です。
秀吉の金のひょうたんの馬印がそこにあります。
が、秀頼はここには居なく、本人は大坂城にいます。
ただし、秀頼も桜門までは出陣したが、結局信繁隊・勝永隊・治房隊などが壊滅したため、引き返します。




一番左の大きなお城が大坂城でここには淀君をはじめ、前日の八尾・若江の戦いにおいて損害が大きかった長宗我部盛親等も大坂城に滞在しています。
そしてちょっと見えにくいのですが、一番大きな建物(天守閣)の窓には女性たちが不安そうな顔をして外の様子を覗いているのが描かれています。