1615年6月2日(慶長20年5月6日)は大坂夏の陣の戦いの一つ八尾・若江の戦いが起こった日にあたります。




籠城策をとれない豊臣方は大坂城を打って出て野戦にて幕府軍と戦う事になり、八尾・若江の戦いはその戦いの一つです。
幕府軍は河内方面、大和方面および紀伊方面より総攻撃を行います。
その河内方面の戦いがこの八尾・若江の戦いです。
この戦いは大和口にて行われた道明寺の戦いこちら 参照)とほぼ同じ時刻に行われた戦いで、幕府軍は藤堂高虎井伊直孝を先鋒とし本多忠朝前田利常松平忠直など総勢55000人で構成され、その後に徳川家康秀忠ら本営が続いていました。


5月2日豊臣軍は河内口から進軍してくる幕府軍に対し、大坂城東方にある低湿地帯で迎撃をすることを決め、木村重成の部隊6000が大坂城を出発しました。
長宗我部盛親増田盛次ら部隊5300も同時に出発したと言われています。

5月5日重成は今福方面を視察し、幕府軍進軍の可能性は低いと考え、若江に兵を進めることにします。

5月6日重成は午前0時頃には出発を考えていましたが、兵の集結が遅れ、結局出発は午前2時頃になってしまいます。
さらに途中道を間違え沼地で立ち往生するなど進軍はうまく進みませんでした。
午前4時頃、藤堂勢の右先鋒藤堂良勝は若江に向かう豊臣軍を発見し、幕府軍はこれに対しての勝手な攻撃はしないよう命じますが、良勝の『豊臣軍は家康・秀忠の本営への攻撃を企んでいるのではないか、直ちに奇襲を仕掛けるべきだ』と高虎に進言し高虎は開戦を決意し、各隊に進撃を発令します。




長宗我部軍先鋒吉田重親は、藤堂高吉の攻撃を受けます。
重親は本隊に援軍を要請しましたが、援軍は間に合わず、討死します。
その後盛親は長瀬川で迎撃の体勢を取ります。
藤堂勢の左先鋒藤堂高刑桑名吉茂は道明寺へ向かう部隊でしたが、長宗我部軍を迎え撃つため長瀬川へ赴きます。
盛親は騎馬武者を全て下馬させ、槍を持たせて堤防の上に伏せさせ、藤堂勢が十分に近づいてから一斉に槍を入れました。
これにより藤堂隊は壊乱し、高刑・吉成は戦死、高虎の旗本藤堂氏勝は負傷しましたが、退却中に死亡します。
高吉も援軍として向かいますが、長宗我部軍に圧倒され、逆に撃退させられてしまいます。
戦いは正午ごろまで続きましたが、長瀬川堤で陣を整えていた長宗我部軍に若江で交戦していた『木村重成が討死』したと言う知らせが届きます。
重成を攻撃していた幕府軍が自分のところに攻撃を仕掛けてきてはさすがに壊滅すると考え、大坂城へ撤退します。




一方長宗我部軍と幕府軍との戦いより少し遅れて午前5時頃若江に到着、重成は先鋒を3つに分け敵の攻撃に備えます。
藤堂勢右先鋒を勤めていた藤堂良勝藤堂良重が攻撃を仕掛けますが、兵の半数を失い敗走、また良勝・良重は戦死します。
午前7時頃になり、井伊直孝は重成軍に対し攻撃を決断し、玉串川東側堤上から一斉射撃後、敵に突入します。
不意を突かれた重成隊は西に後退し、堤は井伊軍が占拠します。
重成隊への攻撃はさらに激しくなっていき、重成自身も槍をもって奮戦したがとうとう戦死し壊滅してしまいます。
それまで戦闘を傍観していた幕府軍榊原康勝丹羽長重らは味方有利とみて木村軍左先手木村宗明を攻撃し、宗明は本隊が敗れたため大坂城へ撤退します。




この戦いは翌日の天王寺・岡山の戦いで大きな影響を及ぼすことになります。
藤堂軍・井伊軍はこの戦闘で大きな被害を受け、天王寺・岡山の戦いでは先鋒を任されていましたが、辞退をせざるを得ない状況となり、盛親は八尾の戦い後の撤退時に大損害を受け実質壊滅してしまい、天王寺・岡山の戦いでは大坂城に留まり戦闘には参加していません。
また、松平忠直は大阪冬の陣で真田丸・城南攻防戦において勝手に攻撃したため、この戦いでは勝手な戦闘を慎めと言う命令を素直に守り、傍観をしたために家康に叱責されてしまいます。
そのため、天王寺・岡山の戦いでは抜け駆けをする誘因となったと言われています。




この戦いで榊原・丹羽隊が事態を傍観しなかなか手を出さなかったのには理由があり、若江は低湿地帯であったため、消耗戦ともいえる戦いになりがちです。
そのため湿地での戦いは孫子の兵法でもすることを薦めてはいません。
これにより大失敗をしている戦いが日本の戦国時代にあり、沖田畷の戦いと言うのがありますが、この戦いは湿地を進軍していた龍造寺隆信率いる大軍が有馬晴信島津家久連合軍に大敗北をし、さらに隆信をはじめ龍造寺家の重臣たちが討死してしまいます。
この戦いも湿地帯で行われたいたため、榊原隊も丹羽隊もこの戦いの二の舞にならないように傍観をしていました。
事実攻撃を行った井伊隊は勝利こそしましたが、大損害を被っています。




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