1615年5月26日(慶長20年4月29日)は大坂夏の陣での最初の戦いである樫井の戦いが行われた日にあたります。




大坂の陣は徳川幕府が最後の抵抗勢力である豊臣家を滅ぼすために行われた戦いで、この夏の陣は真冬に行われた冬の陣の続きになります。

大坂冬の陣までの流れに関しては大坂冬の陣開戦大阪籠城戦まで真田丸・大坂城南攻防戦徳川・豊臣両家和議 を参照してください。


冬の陣では幕府軍は豊臣家と和睦を結び、大阪城の総掘り・外堀・内堀を全て埋めてしまい、埋め立てられてしまった堀を掘り返した事により(本来の和睦の条件は総掘りのみを埋めるものでしたが、徳川軍はどさくさに紛れて(総掘り=全ての堀)として全ての堀を埋めてしまいます)、幕府軍は再び豊臣家に反旗を翻したとし、討伐軍を全国に発令します。

樫井の戦いは徳川方についていた浅野長晟に対して、幕府軍が大坂についていない時を狙って、孤立している浅野家を潰してしまおうと豊臣軍は考えます。
豊臣軍は大野治房を主将に、塙直之(塙団右衛門と言う名が有名)、岡部則綱ら3000人にて紀伊国に攻撃を起こします。
対する浅野家は5000人にて出迎えますが、浅野軍の偵察兵は豊臣軍の兵力を2万人と誤認してしまったために、少数で対抗できる樫井にまで軍を引き揚げ、迎撃の準備を進めていきます。
実は豊臣軍はこの時ある作戦を立てていました。
それは浅野家の治める紀伊国の国民と長晟とはあまり仲が良くなく、当時でも長晟は一揆を警戒をしていました。
治房はここに目を付け、一揆を扇動しそれに乗じて攻撃を仕掛けると言う計画を立てていました。




ところが、治房の計画は4月29日あえなく崩れてしまいます。
それと言うのも豊臣軍の先鋒を任されていた直之と則綱が浅野家殿軍亀田高綱と戦闘が開始されてしまいます。
さらに直之と則綱は高綱の誘導作戦にまんまと引っかかってしまい、浅野家本陣がある樫井にまで誘われてしまい、激戦となります。
もともとまだ攻撃命令が出ていなかった豊臣軍は、先走った直之・則綱軍に援軍が追いつくことが出来ず、則綱は敗走し、直之は激戦の末全身傷だらけになり討死します。
この際、全身血だらけだったために『血達磨塙団右衛門』と呼ばれています。
戦闘終了後長晟は一旦紀伊国山口まで軍を撤退します。



先鋒隊壊滅の知らせを聞いた治房は樫井まで急ぎましたが、もうすでに樫井には誰もいない状態で、何もすることが出来ず大坂城へ引き返します。
また、扇動しようとしていた一揆ですが、戦いの前に扇動しようとしていた大野治長の家臣が浅野家に捕らえられていたため、失敗していました。
この戦いは浅野家の勝利に終わり、大坂夏の陣初戦は豊臣軍は黒星スタートになってしまいます。



ちなみに浅野家は大坂夏の陣にはこの戦い以外に参加をすることができませんでした。
それと言うのも、紀伊国内で北山一揆や紀州一揆などが相次いで起こり、一揆鎮圧に兵を使ってしまいます。
戦後元和5年(1619年)に福島正則が改易されるとその後を継いで安芸国広島42万石の加増移封されます。




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