先日行ってきた場所はこちら


過去の記憶を聞いてみよう
安居神社です。

ここは大坂夏の陣の際、家康本陣を三度突撃をした真田幸村様が最期を迎えた場所として有名です。


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こちらが入口にある『元和元年五月七日眞田幸村戦没地』石碑です。

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こちらが安居神社由緒略記です。


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ここから中に入っていきます。



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まだまだ小さいですが桜の木です。

この木は神社の一番奥に立っています。

以下説明

『幸村公 ふたたび
『大坂の陣』で獅子奮迅の活躍をし、『日本一の兵』と絶賛された真田幸村公は、大阪市民をはじめとし、多くの人々にいまも愛され、親しまれている。
その幸村公の取り持つ縁により、大阪城と上田城は平成18年10月に友好城郭提携を結び、これを期に弊会は両市に記念碑を贈呈し、上田市民との交流を図ってきた。
このたび、上田市有志の会より、友好城郭連携3周年、新生上田市発足3周年を記念し、幸村公のふるさとと信州上田のシダレザクラ、ソメイヨシノの奉納申し入れがあり、幸村公が最期を迎えた安居神社に植樹することとした。
咲き誇る桜花に、赤備えのおたけびをも聞こえることであろう。
平成二十一年十二月吉日
財団法人 住吉名勝保存会』


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こちらが大阪城にある大阪城・上田城友好城郭連携記念碑。


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夏の陣の際幸村様はここで傷の手当てをしている最中、越前松平家の西尾仁左衛門に打ち取られたと言われている場所に建っている石碑です。

逸話では首実験(その首が本当に本人のものかを確かめる)の際、家康は本当にその首が幸村様の首かどうかがわからなかったと言われています。

それと言うのも、影武者が10人ぐらいいたと言われていたため、最後まで迷ったそうです。

この幸村様の髪の毛ですが、首実験が終わってから諸大名はこぞって髪の毛を抜き、その武勇にあやかろうとしたとも言われています。

また、打ち取った仁左衛門は家康に報告をする際、あまりの嬉しさに自慢話のような報告になってしまったため、家康から大激怒を受けたとも言われています。
以下説明

真田幸村陣没の旧跡
『元和元年大坂夏の陣に徳川家康は秀忠と共に大軍を率いて大阪城を攻めた。
ここに於て大坂の兵は城の既に恃むべきからざるを知って出でて戦い、五月六日幸村は後藤基次、蒲田兼相等と大和口を防がんとして河内の片山道明寺に赴き、基次等が敗死したので殿軍となって伊達政宗の兵と戦い、翌七日は天王寺附近に松平忠直の軍を迎え奮戦したが、ついに当社境内一本松の下で戦死した。
時に年齢四十九歳であった。
当時の松はすでに枯死したが、社殿復興を機に昭和二十六年四月二十四日これを記念して植樹された。
例年五月に幸村祭が盛大に行われる。』


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こちらが幸村公銅像寄進者御芳名です。

銅像には多くの人々がかかわっているのがこれでわかりますね。

ここに書かれている人は600名ほどです。



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こちらが本目的である眞田幸村様の銅像です。

以下説明

『幸村公はこの境内で無念の死を遂げました。
その生き方は生きる人間の本義を貫いた人として多くの人に愛されています。
この地から幸村公ははるか故郷信州上田を偲びを馳せていたのかもしれません。
幸村公の遺徳を偲びここに銅像を建立しました。
この銅像にお手をお触れ下さい。
そしてその徳を授かって頂ければ喜ばしく思います。
安居神社宮司』


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斜め45°から撮ってみました。


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後ろから。


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ちゃんと小手の部分に真田家家紋『六連銭』が付いています。

一般的には『六連銭』を『六文銭』とも呼ばれていて、これは仏教で死んでから通る六道を通る上で渡す渡し賃を家紋にすることにより、決死の覚悟で戦いに臨む意思を示しています。


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社務所に張られている真田十勇士の説明です。

十勇士は講談社が作り出した架空の人物です穴山小助は実在する人物)。

それぞれが能力に特化していて、戦などで幸村様を助けたとされています。