1878年(明治11年)5月14日、日本である事件が起こりました。
この事件は当時の日本で大騒ぎになり、号外新聞(朝野新聞)として発行されるほどの出来事でした。
ただこれにより朝野新聞は5日間の発行停止になりました。
紀尾井坂の変
この事件は明治維新において重要な活躍をした人物を暗殺した事件であるため『大久保利通暗殺事件』とも呼ばれています。
誰が暗殺されたのかと言うともうおわかりの通り、西郷隆盛木戸孝允と並んで『維新の三傑』と呼ばれた大久保利通が紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)において、石川県士族島田一郎長連豪ら5人および島根県士族浅井寿篤により暗殺されてしまいます。




この事件は島田一郎が中心的存在となり、一郎は加賀藩の足軽として第一次長州征伐戊辰戦争に参加し、明治政府の軍人として西郷隆盛の下についていましたが、明治六年の政変により、征韓論派の大久保利通は遣韓大使論派の西郷隆盛らを政界から追い出してしまいます(征韓論政変とも言われています)。
その後1877年(明治10年)の西南戦争では薩摩藩側に島田と長は付きますが、薩摩藩は明治政府に敗北します。

明治六年の政変・西南戦争はこちら も参照していただければと思います。
西南戦争後島田らは高官暗殺に方針を変更します。
この時石川県の利通暗殺計画に参加した杉本乙菊脇田巧一杉村文一も島田の計画に参加したと言われています。
また、唯一の島根県である浅井は西南戦争では明治政府軍に警視隊として従軍していましたが、凱旋中に禁令を破り免職させられてしまいます。
そこへ3月浅井は島田らの利通暗殺計画を知り、この計画に参加します。
実はこの暗殺計画は当時警察のトップだった大警視川路利良耳にも入ってはいましたが、『たかが5・6人の石川県に何が出来る』と全く相手にしなかったため、これが紀尾井坂の変の遠因になっています。




5月14日早朝、利通は福島県令山吉盛典と2時間ほど会見をし、8時頃利通は明治天皇に謁見するため自邸を出ます。
その途中午前8時30分頃に利通は島田らに襲撃を受けます。
日本刀で馬の足を切った後、御者の中村太郎を殺害。
すぐさま利通を馬車から引きずりおろし惨殺されてしまいます。
傷は全身に16ありましたが、そのほとんどが頭部に集中していました。
事件後駆けつけてきた前島密は『肉飛び骨砕け、又頭蓋裂けて脳の猶微動するを見る』と利通の遺体を表現されるほどグロテスクさが表わされています。




ちなみに利通の遺体ですが、西南戦争で故郷の薩摩藩と西郷隆盛を敵に回した事で、地元から受け入れられず、東京都港区の青山霊園に埋葬されます。
また、暗殺者に追われた利通は子供のように泣き叫び逃げ回ったという噂が立ち、謹厳な利通のイメージを貶めるものとして地元ではそれを疑う者はほとんどいなかったと言われています。
利通の銅像も今では鹿児島県にはありますが、実はこれが出来たのはつい最近で、西南戦争百周年の機会によるものでした。
銅像を建てた理由は他県から『鹿児島県にはどうして利通の像はないのか?』と言う疑問の声からと言われています。
それと言うのも鹿児島県では西郷隆盛を慕う人が多く、政界から追い出した利通を受け入れることが出来ず、人気がほとんどなかったからなのでしょう。




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