前回までの続きはこちら 参照してください。




相合元綱との家督相続問題後、元就は大永5年(1525年)尼子経久と手切れして大内義興の傘下となることを明確に表明します。
そのため、元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋一族を討伐し、高橋氏が持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れます。
また、長年の宿敵宍戸氏との関係を修復し、友好関係を結びます(これは父弘元の遺言といわれています)。
他に大内家に反乱をおこし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも友好関係を築き、安芸国人の盟主としての地位を確保していきます。



天文9年(1540年)、経久の後継者となった尼子詮久率いる3万の軍勢が毛利本拠地吉田郡山城を攻撃します。
元就は即席の徴集兵を含めわずか3千で籠城し尼子家を迎え撃ちます。
この戦いは吉田郡山城の戦いと呼ばれていますが、この戦いでは吉田郡山城の周辺で戦いが行われ、一般的は籠城戦とは言わず、郡山合戦とも呼ばれています。
この戦いにより尼子家は安芸や備後の国人領主のみならず、出雲や石見などでも多くの国人領主が離反し、膠着状態であった中国地方の勢力争いに大きく変化が起こるきっかけになります。
さらに尼子家を討とうと大大内家は幕府から尼子討伐が出されてしまい、窮地に追い込まれていきます。
一方援軍に成功した大内家は安芸の支配を強化することに成功し、尼子家と大内家の立場が逆転するきっかけとなり、天文11年(1542年)大内家の出雲遠征が行われることになります。
毛利家もこの戦いの勝利により、安芸武田氏を滅亡させます。
大大名である尼子家の撃退、安芸守護の家柄であった安芸武田氏を滅ぼした事により、毛利家は安芸国での優位を確立し、戦国大名としての第一歩を歩みだすことになります。




勢いに乗った大内家はそのまま尼子家本拠月山富田城を攻撃(第一次月山富田城の戦い)し、元就もこれに従軍します。
しかし、吉川興経の裏切りや敵領への深入りのため物資輸送が困難になり、大内家は敗走を余儀なくされます。
この戦いは大内晴持を失ったことにより、大内家当主大内義隆政治への興味を失墜し、大内家衰退のきっかけとなってしまいます。
また、これがきっかけで大内家の間で派閥が起こり、義隆は武断派陶隆房の謀叛により討死する事になります。



時間がないので今回はここまでにします。

ぶちぶちブログが切れてしまってすみません。




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