1574年3月27日(天正2年3月5日)は甲斐の虎の異名を持つ武田信玄の父武田信虎の命日にあたります。




武田信虎の前半生についてはこちら を参照してください。
この後も信濃侵攻を押し進めて行き、時には1日に36城落とすという猛攻ぶりをしていきます。
天文10年(1541年)6月14日、信虎は信濃からいったん甲斐に帰国し、突然信虎は今川家の下にわずかな従者をつれて訪問します。
信玄は見送りとして甲斐と駿河の国境までお共をしますが、信虎が駿河に赴いてからすぐに国境を封鎖してしまいます。
これにより、信虎は甲斐に帰ってくることが出来なくなり、武田信玄は当主の座につき、事実上永久追放になってしまいました。
これは信玄の『無血クーデター』として良く知られている事件です。
この無血クーデターを行った理由としてはいろいろ諸説あり、


1.以前書いたように信虎は自分に異見する家臣たちを次々に切り捨てていったり、その他に妊婦の腹を裂いて胎児の発育状況を見たり、『鉄砲の訓練』と言って農夫を撃ったため。


2.信虎は日ごろから二男信繁を溺愛していたため、次期当主を信繁に取られるのを恐れ先手を打った。


3.当時甲斐では飢饉が流行っていたのですが、信虎は信濃侵攻を押し進めたことにより領民の離反を避けるため、家臣らと共に信虎を追放した。


4.敵対していた今川家と仲良くなったことにより、一部の家臣が快く思わなくなり、信玄と共に追放した。


5.名の知れた信虎よりまだあまり名の通っていなかった信玄を当主とした方が今川家としては都合が良かったため、両家が共謀した。


等の説があります。
1.についてはいささか後世の創作ともとれ、妊婦の腹を切ったというのは殷の紂王の悪行や、ローマ皇帝の暴君伝説でも似たような記述はあります。
また、鉄砲で農夫を撃ったというのもいささかつじつまが合わず、鉄砲は信虎が追放されてから約2年後に種子島に伝わります。
当時としても父を殺したり追放したりした場合、後に都合が悪くなるため、これはこのクーデターを正当化するためのものとも言われています。

クーデター後の信虎は京などに赴き、出家して『無人斎道有』と名乗ったと言われています。
信玄死後は信玄の四男武田勝頼が家督を継ぎ、天正2年(1574年)に信虎は三男武田信廉の居城信州高遠城に身を寄せ、勝頼と対面したと言われています。
そして同年3月5日に高遠で死去します。
葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺にて行われ、供養は高野山成慶院で実施されています。



過去の記憶を聞いてみよう
こちらが大泉寺の参拝堂です。

実は以前甲府に行ったのはここも理由の一つです。

武田神社(躑躅ヶ崎館跡)はその1その2その3 参照してください。



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ここに武田信虎の墓がありますが、運が悪いことに扉は閉ざされていて中に入れませんでした。


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こちらがここにある国指定重要文化財『絹本著色武田信虎像』の説明です。


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こちらが山梨県指定史跡武田信虎の墓の説明です。


過去の記憶を聞いてみよう
中には入れなかったので裏に回って撮ってきました。

中央にあるのが信虎公の墓です。

両サイドにある墓が子の信玄公と信玄公の四男勝頼公の墓です。




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