1184年3月20日(寿永3年/治承8年2月7日)は治承・寿永の乱(源平合戦)における戦いの一つである一の谷の戦いが起こった日にあたります。




この戦いは源平合戦でも一度は耳にしたことがある名前だと思います。
たぶん源平合戦でとくに有名な戦いとしてはこの『一の谷の戦い』『屋島の戦い』『壇ノ浦の戦い』の3つがすぐに思い浮かぶかと思います。

さきに屋島の戦いは扇の的がとくに有名で、これは夕方合戦が一時終了したとき、平家からの挑戦状として、船上に浮かぶ扇を弓で射る話で源氏方の武将那須与一がこれを見事にやり遂げ、両軍歓喜の声が上がったことで有名です。

また、壇ノ浦の戦いは言わずと知れた平家滅亡の戦いです。

一の谷の戦いでは『逆落とし』と呼ばれる奇襲で有名で、この戦いで指揮をとっていて源義経崖下に陣を敷いていた平家に対して、崖から駆け降りて奇襲をし、虚をついた義経は平家に圧勝をし、平家は有能な武将や一族を多く失うことになります。
また、この逆落としで有名な逸話として、精兵70騎を率いて駆け降りるのですが、この時、源氏の武将畠山重忠愛馬三日月に乗って駆け降りる際に、馬が足をけがし、馬を損ねてはいけないという事でその馬を担ぎ崖を駆け降りたと言われ、この時の像が埼玉県の畠山重忠公史跡公園にあります。
予想もしていなかったところから奇襲を受けた平家は大混乱に陥り、義経はこの混乱に乗じて火をかけたため、平家は我先にと海へと逃げ出してしまいます。




また、この時平家方の武将に平敦盛という人物が討死を遂げますが、この人物はあるもののモデルとなります。
これは後に戦国時代に大活躍をする織田信長が好んだものとして有名な幸若舞『敦盛』のモデルとなります。
敦盛は源氏の奇襲により海へ逃げ出した際、敦盛も一時船へ逃げるのですが、この時愛用していた横笛を忘れてしまい、それを取りに戻るのですが、戻ってしまったために船に乗り遅れてしまいます。
敦盛は出向してしまった船を馬で追いかけ、船もそれに気づき岸につけようとしましたが、逆風によりうまく操作ができませんでした。
そんな中、源氏方の熊谷直実がこの状況を見かけ、一騎討ちを申しだします(この時は直実は敦盛だという事を知りません)。
敦盛はこれを初めは受けませんでしたが、直実は受けなければ兵全員で弓を射かけると言ったため、敦盛はこれを受けます。
しかし、直実は百戦錬磨の勇将に対し、敦盛は数え年16歳(17歳という説もあります)の若者、とても勝てるはずもなく敦盛はあえなく捕えられてしまいます。
捕えた直実は敦盛の顔を見て年を尋ねると、自分の息子熊谷直家と同じ16歳であることを知り、直実の嫡男直家の面影が重なり、さらに将来がある16歳の命を自らの手で奪う事をためらいます。
これを見ていた他の源氏方は『次郎(直実)に二心あり。両方もろとも打ち殺せ』と声が上がり始めてしまったため、直実はやむを得ず敦盛を打ち取ります。
一の谷の戦いでは源氏方の圧勝に終わりますが、やむを得ずとはいえ若き敵将敦盛を打ち取ったこと、また翌年には屋島の戦いが起こりますが、世の無常を感じ出家を決意します。



この敦盛の一説に


『人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
(一度生を享け、滅せぬもののあるべきか)』


と言う詞章があり、ここは信長が特に好んだ部分としてとても有名です。
ここで1つ違和感がある人もいるかもしれませんが、『信長公記』には化天を下天と記しています。
実は敦盛は当初の意味と信長の生きていた16世紀の意味は若干違います。
信長が生きていたころの意味としては、


『人間の(平均)寿命はわずか五十年。
下天(人間界)の寿命に比べれば夢または幻のように儚いものだ。
(一度生まれたものは死なないものなど誰もいないのだから。)』


これは信長が戦国時代に華々しくデビューした桶狭間の戦い直前、そして信長が死ぬ直前に舞ったと言われる本能寺の変はとても有名です。
意味からもわかるように信長はこの歌を決死の覚悟を決める時に用いています。
しかし本来の意味は決死の覚悟とかではなく、


『人間界での50年は化楽天での8千年に比べたら一昼夜のようなものだ。』


と言う意味で仏教の六道などを謳っています。




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