躑躅ヶ崎館の歴史についてはこちら を参照してください。

躑躅ヶ崎館は現在では武田神社としてして存在しています。
武田神社はJR中央線甲府駅北口に出て、北側に伸びる大通り沿いに行ったところあります。
この大通りは『武田通り』と呼ばれていて、この通りの近くには武田家の重臣たちの屋敷跡が残されています。


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こちらは武田信玄様の弟君武田信繁公の屋敷があった場所に建っています。

信繁公は第4次川中島の戦いこちら 参照)において激戦を繰り広げ、討ち死にしてしまいます。

また、この信繁公から名前をとった戦国時代の有名人に、真田源次郎信繁様がいます。

真田信繁様こそが後に真田幸村(こちらこちら 参照)として有名になります。


武田通りを進んでいくと武田神社の入り口があります。


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御祭神 武田晴信命(信玄公)
由緒
武田晴信公は清和源氏新羅三郎義光公の後裔(こうえい)で大永元年(1521年)11月3日、武田信虎公の長男として石水寺要害城に生まれました。幼名を太郎、童名を勝千代と名乗り、天文5年(1536年)3月の元服に際し、将軍足利義晴から『晴』の一字を賜り晴信といい、従五位下大膳大夫に叙されました。
天文10年(1541年)信虎公の後継者として、甲斐の国主となり、以後三十有余年領国の経営に力を尽くされました。
天正元年(1573年)4月12日、天下統一の夢を抱き京に上る途中、信州伊那駒場で病没されました。(行年五十三歳)
大正4年(1915年)大正天皇の即位に際し、晴信公に従三位が追贈され、これを機として山梨県民はその徳を慕い、官民が一致協力して、社殿を造営、大正8年(1919年)4月12日、鎮座祭が盛大に齋行されました。
例祭 4月12日(御祭神御命日)
祭典終了後、神輿渡御が行われ、甲冑に身を固めた武田二十四将の騎馬が神輿に供奉(くぶ)し、豪華かつ勇壮な神輿の列が桜花の咲く中、甲府市内に繰り広げられ賑わいを見せております。

武田神社説明文より




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こちらが武田神社全図で、今回回ったのは堀の中だけです。



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武田神社の入り口には赤い橋がかかり、水掘りがあります。



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橋を渡ったところに『武田氏館跡』の石碑があります。

この武田氏館というのが別名『躑躅ヶ崎館』のことです。




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武田氏館跡の説明とその当時の様子の絵です。



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そして通路の両サイドには『右近乃橘』と『左近乃櫻』があります。

櫻の方は季節がら花も何もない枝だけでしたけど。



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階段を登ると石の鳥居があり、鳥居に武田神社と書かれた扁額があります。




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そして鳥居の両サイドには狛犬もいます。




この狛犬のところに文豪太宰治先生が愛し、作中にも載せたといわれる桜の木があります。


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桜がきれいな時に訪れるとその美しさを堪能することができるかもしれませんね。

いったんここで切ろうと思います。




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