3月24日躑躅ヶ崎館跡(武田氏館跡)に行ってきました。
躑躅ヶ崎館は永正16年(1519年)に武田信玄の父武田信虎によって築城され、武田家滅亡後は織田家家臣河尻秀隆浅野長政などが城主となり、後に徳川家家臣平岩親吉によって甲府城を築城したことにより、躑躅ヶ崎館は1594年廃城になります。




この躑躅ヶ崎館は信虎・信玄・武田勝頼の3代の約60年あまりにわたり居城として使われます。
また、その作りも実に質素なもので、堀や石垣などは確かにありますが、幾重にも連なっているわけではありませんでした。
また、信玄は甲斐国に新たに城を築かなかったというのはとても有名な話です。
『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』
という歌があるほどで、信玄は城の防御力よりも城を守る『人』に重点を置いたというのは有名ですね。
信玄はこれに乗っ取って甲斐国に新たに城を作らず、また城の改築などもほとんど行ってはいません。
そのため、この躑躅ヶ崎館はそれほど大きな城ではありません。



後に躑躅ヶ崎館は勝頼の代で大改築されてはいますが、天正10年(1582年)に天目山にて自刃をし武田家は滅亡します。
勝頼が大改築をした理由と言うのが天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて、織田・徳川連合軍に惨敗をしてからと言われています。
そして天正10年に勝頼は家臣の反対を押し切り新府城を築き、そこを居城としますが、その直後に織田信長の甲府攻めによりあえなく滅亡してしまい、天正壬午の乱でパニックになった甲斐国を徳川家康が制圧し、躑躅ヶ崎館は徳川家の城になります。
そしてこの躑躅ヶ崎館は日本100名城の一つとして数えられています。
現在ではこの躑躅ヶ崎館の周りには武田家主要の家臣たちの屋敷跡が、立て札として残されています。




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