今日は1990年に東京都が制定した東京都平和の日です。
なぜ今日が東京都平和の日なのかと言うと、1945年3月10日に起こった東京大空襲にちなみ命名されました。




この当時は日本はアメリカ、イギリスなどの連合国と戦争をしていました。
しかし、日本はアメリカ軍などに連戦連敗を喫していき、とうとうアメリカ軍は1944年から日本本土への空襲を本格的に進めていきます。
東京も当然その戦火にさらされ、1944年11月14日以降106回の空襲を受けることになります。
そして1945年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25-26日の5回は大規模な空襲を受けます。
そしてその中でも『東京大空襲』といった場合、死者10万人以上と著しく多い1945年3月10日の大空襲を差します。
この空襲は都市部が標的となったため、非戦闘員(民間人)に大きな被害を被ることになります。

アメリカ軍は3月9日夜、首都圏上空に飛来し、日本軍もその行動を察知し、ラジオ放送を中断し、警戒警報を発令しています。
しかし、アメリカ軍が従来の空襲とは異なった航路をとったことにより、日本軍は敵機が房総半島沖へ撤去したものと誤認し、警戒警報を解除してしまいます。
この隙を突く形で3月10日に日付が変わった直後の午前0時07分、深川地区に初弾が投下されたのを皮切りに各地に爆撃が開始されていきます。
この時使用された爆弾は焼夷弾で、これを用いた理由としては、当時の日本は木造建築が大半を占めていたため、火を用いることにより大火災を起こさせ、被害を拡大させるためでした。
そのため、アメリカ軍はB-29に通常の約2倍の搭載量である6トンの高性能焼夷弾を載せる代わりに、ほぼ全ての機関銃および弾薬を降ろしたと言われています。
アメリカ軍が武装を弱めたのには、当時の日本軍には対空能力がほとんどなく、攻撃されても大した被害を受けることはないと見抜かれていたと言われています。
そのため、東京大空襲では、使用された焼夷弾は38万1300発、重さにして1783トンにも及んでいます。
また、この日の夜は東京は強い冬型の気圧配置だったため、強い季節風(空っ風)が吹いていたため、さらに空襲時火力を上げる形で影響を及ぼします。
実はこの時使われていた焼夷弾はあるものを参考にされていました。
それが日本と同盟を結んでいたドイツ軍によるロンドン空襲の際、不発弾として回収された爆弾でした。

この東京大空襲では火災による被害がとても大きく、季節風による影響もあり、各地で巨大な火災旋風が巻き起こり、主な通りは軒並み『火の粉の川』と化していました。
そのため、鉄筋コンクリート造の学校などに避難した人も数多く、その際逃げ惑う最中炎に巻かれて焼死した人々や、炎に酸素を奪われて窒息死する人々が後を絶ちませんでした。
あまりの熱さに隅田川や荒川などに炎から逃れるために飛び降りた人々もたくさんいましたが、冬の低い水温のため凍死する人々も多く、各川では凍死・溺死者が水面に溢れかえっていたそうです。



昔から『火事と喧嘩は江戸の華』と言われていたほど、江戸(東京)は火事が多くありました(実際に意味は江戸の火消しの華やかな働きぶり、江戸っ子の喧嘩は威勢がよくどちらも見物であるというような意味です)。
代表的な火災としては明暦3年1月18日(1657年3月2日)から2日間江戸の町で燃え続けた明暦の大火(死者10万人にも上ったと言われています)を始め、天和の大火明和の大火文化の大火や、安政の大地震により起こった火災そして関東大震災で起こった火災こちら 参照)など数多くの火災が江戸(東京)では起こっています。
この東京大空襲もアメリカ軍が以前から研究をし、焼夷弾を用いて無差別攻撃を決行しています。
そして関東大震災の被害を大きく上回る被害が一夜にして起こってしまいます。
この時の赤く染まった空は遠く離れた沼津でも見ることが出来たそうです(『うしろの正面だあれ』より)。
東京大空襲を見るのであれば『うしろの正面だあれ』は良い材料だと思います。
自分も小学生のころこれを見て東京大空襲の事を知りました。
また、同日東京大空襲からの帰りにB-29は福島県平市(現いわき市平)に残りの爆弾を落として行っています(平空襲)。



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