1611年3月5日(慶長16年1月21日)は島津家第16代当主島津義久の命日にあたります。

義久は1533年3月4日(天文2年2月9日)島津貴久の長男として伊作城にて生まれます。



貴久の子どもには義久、島津義弘島津歳久島津家久の四人がいます。
この四人の事を俗に島津四兄弟として今では親しまれています。
この四人の性格を的確に表現しているのが義久の祖父島津忠良で、彼は四兄弟を『義久は三州の総大将たるの材徳自ら備わり、義弘は雄武英略を以て傑出し、歳久は始終の利害を察するの智計並びなく、家久は軍法戦術に妙を得たり』と評価し、義久に期待をしていました。
これを簡単に言ってしまうと『義久は総大将とし統率する事に長け、義弘は武勇に優れ、歳久は知略に優れ、家久は軍略に優れている』と評しています。
忠良の評価は見事的を得て、義久は肥前の龍造寺家、豊後の大友家など九州の大半を勢力下に置きます。
義弘は関ヶ原の戦いで周りを敵に囲まれながら中央突破し、井伊の赤鬼こと井伊直政の追撃を切り抜けています。
歳久は義久の作戦参謀として活躍し先を見る能力に長けていたと言われています。
家久は沖田畷の戦い龍造寺隆信を少数の兵で打ち取り、戸次川の戦いこらち 参照)においては釣り野伏せ長曽我部信親十河存保を打ち取るなどしています。




義久は着々と九州を統一していきますが、全土を統一することはできませんでした。
それと言うのも当時風前の灯に等しかった大友宗麟豊臣秀吉に援軍を求め、自ら秀吉の軍門に下ります。
天正14年(1586年)秀吉は宗麟からの援軍要請に応えるため、仙石秀久総大将に四国の大名家を九州に援軍として送ります。
因みにこの時秀吉は徳川家康との戦いのため、始めは本体を送ることができませんでした。
しかし、この戸次川の戦いでは豊臣軍は見るも無残な惨敗を喫します。
年が明け天正15年に秀吉は本格的に九州征伐へと動くことになります。
秀吉は大軍を率いて3月に九州に上陸し豊後・豊前から島津家を追い出していきます。
そして兵を2つに分け、筑前国(長崎)・肥後国(熊本)方面からは秀吉本陣が、日向国(宮崎)方面には弟豊臣秀長軍が侵攻していき、とうとう残すところ薩摩国(鹿児島)のみになってしまい、とうとう義久は頭を丸めて秀吉本陣に赴き降伏します。
義久が降伏してからも義弘や歳久らは抵抗を続けましたが、義久の説得によりついに終息していきます。
この戦いの後、秀吉はある転機が訪れます。
秀吉は織田信長と同じくキリスト教を保護していましたが、実はこの九州征伐の直後急にキリスト教を禁止し、バテレン追放令を発布します。
この追放令を出した理由には諸説あり、


1.キリスト教が拡大し、信長を苦しめた一向一揆のような反乱がおこることを恐れた。

2.神道・仏教への迫害を好まなかった。

3.ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたのをやめさせるため。


などがあります。
一般的には1の説が有力かと思われます。
それと言うのもキリスト教と一向一揆との違いは、一向一揆に関しては身分の低い農民などが大半を占めていましたが、キリスト教は大名にまで及んでいたため、場合によっては一向一揆よりも厄介になるのではないかと恐れたためと言われています。




関ヶ原の戦いの際は弟義弘は西軍として加担をし、再三義弘は国元に援軍要請をしますが、義久はこれに応えませんでした。
戦後島津忠恒を上洛させたことにより、島津家は改易を免れ、本領安堵の沙汰が下ります。
慶長7年(1602年)、義久は当主の座を正式に忠恒に譲り隠居しますが、隠居後も義久は政治的権力を保持し、義久が死ぬまでその発言力を保持していたと言われています。




そして1611年3月5日(慶長16年1月21日)国分城にて病死します。




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