1543年2月16日(天文12年1月13日)は安土桃山時代を代表する絵師狩野永徳の誕生日にあたります。



永徳は狩野派の代表的な画人で、日本美術史上もっとも著名な画人の一人です。
狩野派は室町幕府8代将軍足利義政に仕えた狩野正信を祖とし、その子孫は室町幕府崩壊後、織田信長豊臣秀吉・徳川将軍など天下人などの絵師として仕え、常に画壇の中心を占め、内裏(天皇の私的区域)、城郭、大寺院などの障壁画から扇面などの小画面に至るまで、あらゆるジャンルの絵画を手掛ける職業画家集団として、日本美術界に多大な影響を及ぼした。




永徳は狩野派隆盛の基盤を築いた2代目狩野元信の孫にあたります。
最初の永徳の事績が記録に現れるのは山科言継の日記『言継卿記』の天文21年1月29日の条に、この日狩野元信が孫を連れて13代将軍足利義輝に拝謁したことが記されていて、この『孫』が当時10歳の永徳と言われています。




永徳は『洛中洛外図屏風』を初め、公家の頂点に位置していた五摂家の筆頭である近衛家の障壁画を描いたり、臼杵城(大分県)の障壁画を描いたりしています。
また、信長の居城安土城の障壁画や、秀吉の大坂城や聚楽第の障壁画を担当するなど時の権力者に重く用いられていきます。

天正17年(1589年)には後陽成天皇の内裏の障壁画を担当し、翌18年には八条宮家の障壁画を描きます。
同年9年には東福寺法堂の天井画の龍図を製作中に病気になり、死去してしまいます。
死因は過労死と言われています。




永徳の代表的な作品としては『洛中洛外図』や『唐獅子図屏風』などが有名で、歴史の教科書や資料集などで見ることができます。

過去の記憶を聞いてみよう

洛中洛外図右隻


過去の記憶を聞いてみよう
洛中洛外図左隻


洛中洛外図は京都の中心部(洛中)と郊外(洛外)を鳥が眺めるように描かれていて、足利義輝が注文し、永禄8年(1565年)までに永徳が描き、天正2年(1574年)に織田信長上杉謙信に贈ったものとされています。
洛中洛外図は右隻左側から右方向へ春から夏、左隻左側から秋冬と季節が流れるように描かれています。
この屏風は上杉博物館に現在展示されています。




過去の記憶を聞いてみよう
唐獅子図屏風


唐獅子図屏風は天正10年(1582年)に秀吉が本能寺の変を知り、機内に戻る際、当時備中高松城を包囲していた秀吉は急遽結んだ講和の際、その証として毛利輝元に贈ったものという伝承がありますが、それを裏付ける資料は現在ありません。
この屏風は宮内庁三の丸尚蔵館に現在展示されています。




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