1904年2月8日は日本(当時大日本帝国)とロシア帝国とのあいだで起こった日露戦争が勃発した日です。
日露戦争は朝鮮半島とロシア主権下の満州(中国東北部)南部を主戦場として発生した戦争です。




話は少しさかのぼり、10年前の清国(現中華人民共和国・中国)との戦争に勝利し(日清戦争)、日本は朝鮮半島を領土としました。
これにより、日本は本土の近代国家の建設を押し進めるとともに、北から侵攻してくるロシアへの対抗を確保していきます。
しかし、日本はロシア、ドイツ、フランスによる三国干渉により、下関条約で割譲を受けた遼東半島は清に返還しなければいけなくなります。
この時はロシアとの戦争も有り得たのですが、当時の日本は戦後ということもあり、また列強諸国と戦うだけの力が無く、政府内では伊藤博文戦争回避派が大半を占めていたため、引き下がる結果となりました。



ところが日本にとって予期せぬことが起こります。
1896年6月3日にロシアが清との間で露清密約を結び、下関条約で手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を1898年に租借(一時的に土地を他に預けること)し、旅順に太平洋艦隊(ロシア艦隊)の基地を作るなどし、満州への進出を押し進めていきます。




1900年にロシアは清で発生した義和団の乱の混乱収拾のため満州へ侵攻し、その全土を占領下に置きます。
ロシアは満州の植民地化を既定事実化にしてしまおうとしますが、当然日本はこれを黙って見過ごすことはせず、イギリス・アメリカと共にロシアへ講義し、ロシアは撤収を約束します。
しかし、ロシアは撤収をするどころか増強を押し進めて行きます。
また、イギリスは南アフリカで起こっていたボーア戦争により、アジアに兵力を多く送ることができず、ロシアと単独で対抗することが難しい状況でした。
また、このままではロシアが南下していき、イギリス自身の権益と衝突すると危機感を募らせ、1902年イギリスは長年の理念であった独立政策(栄光ある独立)を捨て、日本との同盟に踏み切る事にしました(日英同盟)。
この同盟は日露戦争で日本が大国ロシアを倒す勝因の一つになります。




イギリスと同盟を結んだ日本は1903年8月からの日露交渉において、日本側は『朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置く』という妥協案(満韓交換論)をロシア側へ提案します。
しかし、積極的な主戦論を主張していたロシア海軍や関東州提督エヴゲーニイ・アレクセーエフらは、これに興味を示さず、ニコライ2世アレクセイ・クロパトキン陸軍大臣も主戦論に同調します。
これというのも強大なロシアが戦力においてはるかに劣る日本と戦争して負けるはずがないと思っていたため、ロシアは主戦論を唱えることになります。
そんな中戦争回避論を唱えていたロシアの重臣もいましたが、あえなく破棄されてしまいます。
ロシア側は『朝鮮半島の北緯39度以北を中立地帯とし、軍事目的での利用を禁止する』という提案を出します。



しかし、これでは日本海に突き出た朝鮮半島が事実上ロシアの支配下となり、日本の独立も危機的な状況になりかねないと判断します。
そのため、日本はロシアとの一戦を覚悟しますが、日本にとって気がかりな点が1つありました。
それは『シベリア鉄道』です。
まだ当時はシベリア鉄道は全線開通していませんでしたが(全線開通したのが日露戦争の最中1904年9月)、開通されてしまうとヨーロッパに配備されているロシア軍の極東移動が容易になり、さらに兵力差で日本の勝機をなくしてしまうことになってしまいます。
そのため、日本は対露開戦へと国論が傾いて行きます。



そして1904年2月6日、日本はロシアに国交断絶を通告し、10日に宣戦布告を行うことになります。

2月8日18時に旅順港にいたロシア旅順艦隊に対して日本海軍は奇襲攻撃(旅順口攻撃)しますが、この攻撃ではロシアの艦艇数隻に損傷を与えたが大きな戦果にまでは至りませんでした。




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