754年1月21日(天平勝宝5年12月20日)は鑑真仏舎利を携えて薩摩坊津に来日した日にあたります。




外国に行くのに船や飛行機を使いますが、今では沈没や墜落という事はほとんどなく安全に外国に行き来することができますが、当時は飛行機などなく、船と言っても今のように頑丈に出来ていなかったため、一度嵐になった時簡単に沈没してしまうような船でした。
さらに海賊などの襲撃を受けたりするなどして、船を沈められてしまうようなことも当時は当然ありました。
そのため、中国大陸から日本に来日するという事は命懸けの行為でした。




鑑真も6回の来日を挑み、最後に成功をしたのが754年1月21日(天平勝宝5年12月20日)なのです。
それ以前の5回は嵐などにより難破し、漂流などもします。
鑑真は751年、来日をする前に揚州に帰上の間に気候の変化や激しい疲労により両目を失明してしまいます。
ただ、この失明説は最近では少し変わってきていて、来日翌年に書かれた東大寺の良弁に経典の借用を申し出た鑑真奉請経巻状は、弟子の代筆説より鑑真の直筆説の可能性が高くなったことから、渡日後も完全には失明はしていなかったとする説も上がってきているようです。



6回目の航海では、鑑真の才能を惜しんだ当時の玄宗皇帝が渡日を許されず、遣唐使大使藤原清河鑑真の乗船を拒否してしまいます。
それを聞いた副使大伴古麻呂密かに鑑真を船に乗船させます。
しかし、船はすぐに暴風に襲われ、清河の大使船は南方まで漂流してしまいますが、古麻呂の副使船は持ちこたえ、とうとう鑑真は念願の来日を果たします。
この間来日を心がけてから実に10年の歳月を経ての来日となりました。




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