1587年1月20日(天正14年12月12日)は九州で勢力を伸ばしてきた島津家に対して大友家の援軍として差し向けた豊臣秀吉の配下仙石秀久を軍監とした長宗我部・十河らの四国勢を派遣し、戦った戸次川の戦いが起こった日にあたります。




当時九州では薩摩(現:鹿児島県)の島津家、豊後(現:大分県)の大友家、肥前(現:佐賀県)の龍造寺家の三家が勢力を拡大し覇権を争っていました。
しかし、大友家は元亀元年(1570年)の今山合戦龍造寺隆信に、天正6年(1578年)の耳川合戦島津義久に大敗を喫し、後者の耳川合戦においては大友家一の軍師角隈石宗を始め蒲池鑑盛など有力な家臣が討死し、大友家についていた国人領主は龍造寺家や島津家へと離反を起こしていきます。
また、隆信は島津家と沖田畷において戦いますが、隆信は討死をし、九州は島津家の独壇場となってきます。
独自で領地を守ることができなくなってきた大友家当主大友宗麟は当時の天下人である秀吉に支援を要請して自ら臣従し、ここから秀吉の九州討伐(天正14年ー天正15年)が開始されることになります。
しかし、この時秀吉は徳川家康と敵対関係にあったため、大規模な援軍を送ることが出来ず、四国の大名を豊後に派遣します。

一方島津家は大友領をたちまちのうちに侵食していき、鶴賀城を包囲します。
この時、島津家久は大友家や豊臣家の後詰でやってくることを予測し、軍を三手に分けます。
この戦法は島津家が得意とした『釣り野伏せ』と呼ばれています。
そして鶴賀城を包囲すると同時に、援軍が渡河するであろう場所に待ち構え、家久自身は鶴賀城を見下ろす梨尾山に本陣を起きます。




豊臣軍は兵力2万で援軍に到着しますが、軍の半分以上の兵力を保持していた大友義統は軍を動かさなかったため、即座に使える兵力は半分以下でした。
島津家を蹴散らすためにはどうしても義統の兵が必要でしたが、秀吉の威を借り功を焦る秀久がほとんど独断的に鶴賀城救援のための出陣を決定させてしまいます。
秀久は先勝を挙げて士気を高めようと無謀にも冬季の渡河作戦を決行し戸次川を挟んで島津・豊臣両家で対峙しますが、元々士気が低かった豊臣軍は統制が取れず、さらに島津戦法の『釣り野伏せ』に誘われ、一気に島津の攻撃一方戦となり、人数の劣る秀久軍はあっという間に浮き足立たせ壊滅してしまいます。
その勢いに乗る島津軍は長宗我部信親十河存保軍になだれ込み、激戦の末両将は討死してしまいます。
遅れてきた長宗我部元親率いる第3陣は戸次川において軍が壊滅したという知らせを受け、退却を余儀なくされます。
この時元親は嫡男信親の死を知り自殺しようとしましたが、家臣に止められたと言われています。
これ以降元親は溺愛していた信親がいなくなり、性格がガラリと変わりしばらくの間非情になったと言われています。
また、この戦いの大将を受けていた秀久は諸将の軍を差し置いて、小倉城に撤退し、その後讃岐(現:香川県)に逃げ帰るという醜態を晒す事になります。




この大勝に乗じて島津家は鶴賀城を落とし、翌日府内へ侵入し、義統は万策尽きて豊前へ逃走します。
しかしその後も大友家は各地で激しく抵抗を続けたため、豊臣家の大軍が豊前に援軍が間に合い、島津家は大友家を滅ぼすことが出来ず豊後から撤退することになります。



また、帰還後秀久は敗戦の責を問われ、領土没収並びに改易処分となり高野山へ追放されます。



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