久々の続きで今回は大阪巡りその3の更新です。

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過去の記憶を聞いてみよう
大阪城公園本丸跡地です。

今では広い広場になっていますが、昔はここに本丸があり、武家などが住んでいました。



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こちらは本丸にある『大阪城・上田城友好城郭提携記念碑』です。

上田城は大坂の陣で活躍をした真田幸村様の出身で、大阪では幸村様はとても親しまれています。

そのため、上田市と大阪市はお互いの友好とし記念碑を建てました。



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これは上の写真のちょうど反対側から見た写真です。

大阪城の天守閣が見事にそびえ立っていますね。


本丸御殿跡
城の中心を本丸といい、大阪城の本丸には天守のほか、政治を行うための御殿があった。
豊臣時代の本丸御殿は大坂の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸の盛土をほどこし再び築かれた。
幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台ともなっている。
慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の動乱の中で全焼し、明治18年、跡地に和歌山城二の丸御殿の一部が移されたが(紀州御殿)、これも昭和22年(1947)に焼失した。
ここは江戸時代の本丸御殿の玄関付近である。




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これも大阪城本丸跡広場にある日本庭園と呼ばれるものです。

こういうのを見ていると心が和むというか落ち着きますよね。


日本庭園
昭和6年(1931)の大阪城天守閣復興にあわせ、大阪市の手により、当時東側に建っていた紀州御殿の庭園として整備された純日本式庭園である。
中央の池は面積約300坪の鶴翼形、背景に築山をめぐらしている。
池の南側からは、天守を借景とした庭園のたたずまいが楽しめるよう工夫がなされている。




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城といえば天守閣、他には堀や石垣などもありますよね。

大阪城にはこのような巨石が12個(だったかな)使われていて、多くは四国、中国、九州地方などから運ばれてきたものを使われています。

しかし、こんなに大きな石を運んでくるのは大変だったんでしょうね…

今のような重量機器などがなかったわけですから…


桜門枡形の巨石
桜門の内側には、本丸正面入口を守るため、石垣で四角く囲まれた『枡形』とよばれる区画が設けられ、上部に多聞櫓【たもんやぐら】が建てられた。
この枡形は、徳川幕府による大坂城再築工事の第2期工事が始まった寛永元年(1624)、備前岡山藩主池田忠雄【いけだただお】の担当によって築かれ、石材は備前(岡山県)産の花崗岩【かこうがん】が用いられている。
正面の石が蛸石【たこいし】とよばれる城内第1位の巨石で、表面積がおよそ36畳敷(59.43平方メートル)、重量は約108トンと推定される。
向かって左手の巨石は振袖石【ふりそでいし】(袖石【そでいし】)とよばれ、表面積はおよそ33畳敷(53.85平方メートル)で、城内第3位である。なお、上部の多聞櫓は慶応4年(=明治元年、1868)、明治維新の大火で焼失した。



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ちなみにこちらは大阪城の石垣に使われなかった岩です。

通称『残念石』と言われていて、こういう石も数多く存在します。

せっかく苦労して運んできたんでしょうに…





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重要文化財として登録されている桜門…

なのですが、今現在(平成25年1月)は改築工事が行われていて全貌を拝むことができませんでした。

また機会があるときに行って完成された桜門をみたいですね。


重要文化財 桜門
本丸正面にあたる。
徳川幕府により大坂城再築工事が行われた寛永3年(1626年)に創建されたが、慶応4年(=明治元年、1868)に起きた明治維新の大火によって焼失し、明治20年(1887年)に陸軍が再建し現在に至る。
左右の塀も桜門再建に合わせて新築されたが、戦後に台風の被害を受けて倒壊し、昭和44年(1969年)に復元されている。
桜門の名所は豊臣秀吉が築いた大阪城以来のもので、当時二の丸に桜の馬場とよばれる場所があったことから、門付近に植えられた桜並木にちなんで命名されたと考えられている。
ただし豊臣時代の大阪城は、徳川幕府再築の今の大坂城とは地形や構造が大きく異なり、桜門を含む本丸への入口は現在よりも西にあり、入る方向も違っていた。
なお門の両脇に見える巨石は龍虎石【りゅうこいし】と呼ばれ、江戸時代には雨が降ると右に龍の姿が、左に虎の姿がそれぞれ現れると言われた。




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天守閣に焦点を当ててみました。

天守閣というのは圧巻させられますよね。

城の象徴とも言える建物です。


登録有形文化財 大阪城天守閣
現在の天守閣は昭和6年(1931)、大阪市民多数の寄付金を元手とし、『大坂夏の陣図屏風』に描かれた豊臣時代の天守を参考に建設された。
鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上層の鯱までの高さは約54.8メートル。
古典建設を近代的な技術によって再現した、わが国の復興天守第1号である。
初代の天守は、豊臣秀吉が大阪築城を開始して3年目となる天正13年(1585)に完成したが、慶長20年(1615年の大坂夏の陣で城もろとも焼失。
二代目の天守は徳川幕府による再築工事の最中、寛永3年(1626)に現在の場所に築かれたが、寛文5年(1665)に落雷で焼失した。
以来大坂城は天守のない城郭として幕末に至る。
三代目となる現代の天守は、復興時から博物館施設として利用され、第2時大戦の空襲でも焼失はまぬがれた。
平成9年(1997)には復興以降初めての改修工事が完了し、同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として国の登録有形文化財となった。
なお戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守は現在地よりも東にあったことが判明しており、高さは約40メートル。
配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されている。




長い更新ですみません。

長くなってしまいましたので(大半は写真で長くなりましたが)、今回はここで終わらせておきます。

大阪巡りはもう少し続きます。




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