1914年(大正3年)1月12日は鹿児島県にある桜島で噴火が始まり(大正大噴火)、鹿児島では桜島の日とし、毎年この日に噴火を想定した防災訓練が行われています。

山には主に活火山休火山死火山の3種類に分類されています。
活火山は以前は活動している火山を活火山と定義されていましたが、今では


『概ね過去一万年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山』


と定義を変更されています。
また、これですとあまりに範囲が広くなってしまうため(桜島などは今でも活動は活発ですが、富士山は数百年活動を起こしていません)、それぞれの山にAからCに活火山のランク分け(桜島は活火山ランクA、富士山は活火山ランクBなど)をしています。

この大正大噴火で死者58人、傷者112人、焼失家屋2268棟の被害を出したと言われています。
また、本来桜島と鹿児島県は海で分かれていたのですが、この噴火により陸続きになったとも言われるほど大きなものでした。

また、火山灰は九州から東北地方に及ぶ各地で観測され、噴火によって桜島の地盤が最大約1.5m沈降したことが噴火後の水準点測量によって確認されました。
これらによる記録でこの噴火が大きかったことが伺えます。


過去の記憶を聞いてみよう

桜島の衛生地図です。

桜島の南東部において陸続きになっています。

また、小さくて見えにくいかもしれませんが、桜島には大正溶岩や昭和溶岩というものがあります。

ここはそれぞれ、大正3年の大正大噴火と1939年(昭和14年)11月の噴火で活発に活動していた場所です。


この噴火の前兆としては、1913年(大正2年)6月29日から30日にかけて弱い地震が起こり始めたことが最初の前兆現象でした。
同年12月には井戸水の水位が変化したり、火山ガスによる中毒が原因で死者が出るなどの異変は発生し、12月24日には桜島東側海域で魚やエビなどの大量死が起こり、海水温が上昇したとも言われています。
また、翌年1月には桜島東北部で地面の温度が上昇し、本来なら冬眠しているはずのヘビ、カエル、トカゲなどが活動しているのを目撃されたとも言われています。
また、1月10日には鹿児島市付近を震源とする弱い地震が発生し、翌11日にかけて弱い地震が頻発するように(微小地震が400回以上、弱震が33回観測)なりました。
そして、1月12日午前8時から10時にかけて、桜島中腹からキノコ雲状の白煙が噴き出す様子が目撃され、10時5分、桜島西側中腹から黒い噴煙が上がり、その約5分後、大音響と共に大噴火が始まったと言われています。
その際、噴煙は上空3000m以上に達し、岩石が高さ約1000mまで吹き上げられています。
午後になると噴煙は上空10000m以上にも達し、桜島全体が黒雲に覆われました。
また、午後6時30分には噴火に伴うマグニチュード7.1の強い地震(桜島地震)
起こり、対岸の鹿児島市内でも石垣や家屋が倒壊するなどの被害が出ています。
この大正大噴火は1916年(大正5年)にほぼ終息します。


前兆が起こっていた1月10日夜から住民の間で不安が広がり、地元の行政関係者が児島測候所(現・鹿児島地方気象台)に問い合わせしたところ避難の必要はないと回答されたが、1月11日になると住民の中に避難を始める者が出始めます。
また、桜島東部及び北部の青年会では女性、子供、老人を優先的に各地へ避難が進められていきます。
一方、鹿児島市街地に近い桜島西部では見解を信じる者が多かった為、避難が遅れ、1月12日午前の噴火開始直後から避難しようとする住民が殺到し大混乱になったと言われています。
しかし、大噴火による被害は避難に遅れた西側ではなく、東側の方のが被害が大きかったと言われています。
桜島東側の瀬戸海峡は海面に浮かんだ軽石の層が厚さ1m以上にもなり、船による避難が困難でした。
そのため、東桜島村では混乱によって海岸から転落する者や泳いで対岸に渡ろうとし凍死や溺死する者が相次いだと言われています。
この教訓から、鹿児島市立東桜島小学校にある桜島爆発記念碑には


『住民は理論を信頼せず異変を見つけたら未然に避難の用意をすることが肝要である』


との記述が残されており、『科学不信の碑』とも呼ばれています。



また、地震発生以降、津波襲来や毒ガス発生の流言が広がり、市外へ避難しようとする人々が続出し、この混乱は1月17日頃まで続きました。
そして、この大噴火以降、震災復興のために桜島と鹿児島市街地を結ぶ定期航路を望む声が上がり、1934年(昭和9年)11月19日に当時の西桜島村が村営定期船の運航を開始されます。
これが後の桜島フェリーです。




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