前回の続きということ、今回は大阪城編です。

真田丸編についてはこちら 参照してください。



過去の記憶を聞いてみよう

大阪城公園の地図

かなり解像度落ちちゃったから文字とか見えないですよね。

ごめんなさい。

地図に写っている影は気にしないでください…自分の影ですので(;^_^A



過去の記憶を聞いてみよう
大阪城公園にはここから入城しました。

この門は天守閣の北側にあり、こちらには環状線大阪城公園駅があります。


青屋門
青屋口は大阪城二の丸の北に位置する出入り口で、青屋門はその枡形【ますがた】の内側に建つ。
創建は徳川幕府による大坂城再築工事が開始された元和6年(1620年)ごろと考えられ、明治維新の大火によって被災し、その後陸軍によって改築されたものの、昭和20年(1945年)の空襲で再び大破した。
昭和44年(1969年)、大阪市が残材を用いて再建したのが現在の門である。
現状は上部に櫓【やぐら】を乗せる独立した櫓門だが、江戸時代には上部の櫓部分がさらに北西の石垣沿いに長く延びていた。
枡形とは敵の侵入を防ぐための四角い区画のことで、青屋口の枡形は、二の丸の他の各口とはことなり外側に突き出す出枡形【でますがた】だった。
さらにその外側はかつて水堀となっていて、橋が架かっていた。
この橋は押し出し引き入れ自在のいわゆる算盤橋【そろばんばし】で、非常時以外は引き入れたままになっていた。
「青屋」の名については、戦国時代この地にあった大坂(石山)本願寺の寺内町「青屋町」に由来すると考えられている。




過去の記憶を聞いてみよう
青屋門をくぐり、その先にそびえ立つ大阪城天守閣です。





過去の記憶を聞いてみよう
大阪城東側内堀です。



過去の記憶を聞いてみよう
かわりまして北側内堀とその先に見えるのが極楽橋です。


極楽橋
山里丸と二の丸とを結ぶ橋である。
豊臣秀吉が天正11年(1583年)に築造を開始した大坂城でもこの付近にかけられた橋を極楽橋と呼び、大阪夏の陣による落城後、徳川幕府が再築した時にも繋け直された。
江戸時代には幅約8メートル(4間)の木造で、慶応4年(=明治元年、1868年)に起こった明治維新の大火によって焼け落ちたが、97年後となる昭和40年(1965年)に再架橋された。
現在の極楽橋は長さ約54メートル、幅約5.4メートルで、橋脚【きょうきゃく】・主桁【しゅげた】を鉄筋コンクリート造としつつも、上部は歴史的景観に配慮し伝統的な擬宝珠高欄【ぎぼしこうらん】としている。
「極楽」とは仏教で説かれる安楽の世界をさすことから、戦国時代この地にあった浄土真宗本願寺派の本山、大坂(石山)本願寺以来の名称ではないかと考えられている。




過去の記憶を聞いてみよう
極楽橋を通り、山里丸へ入った左側にある秀頼公と母淀殿の自害の碑です。


秀頼・淀殿ら自刃の地
慶長20年(=元和元年、1615年)の大阪夏の陣では、旧暦の5月8日、徳川軍に追い詰められた豊臣秀吉とその母淀殿が、山里丸にあった櫓にひそみ、自害したと多くの記録が伝えている。
それにちなんで平成9年(1997年)、現在の山里丸の一画に大阪市の手によりこの記念碑が建てられた。




過去の記憶を聞いてみよう
撮り方をミスった一枚です(;^_^A

こちらは山里丸と言われている場所なのですが、ここを登って本丸へと向かいます。


山里丸
内堀に囲まれた大坂城本丸のうち、天守北側の一番低い地域を特に山里丸(山里曲輪【くるわ】)と呼ぶ。
豊臣時代には、山里の風情をかもし出す松林や、桜、藤などの木々がしげり、いくつもの茶室が建っていた。
天正11年(1583年)に大坂城の築城を開始した豊臣秀吉は翌年1月、天主完成よりも早く、ここで茶室完成の御披露目【おひろめ】を行っている。
秀吉は、要人をもてなす場、家族のくつろぎの場として山里丸を利用し、没後は遺児秀頼により、父秀吉を祀【まつ】る豊国社【とよくにしゃ】も建てられた。
慶長20年(=元和元年、1615年)の大阪夏の陣では、秀頼とその母淀殿がこの地で自害したと伝える。
のち徳川幕府の手によって大坂城は全面的に築き直され、ここには一年交替で城を守衛する大名、山里加番【やまざとかばん】の主従が生活する小屋(公舎)が建てられた。




過去の記憶を聞いてみよう
出枡形です。

結構整った石ですごい綺麗な作りでしたよ。



過去の記憶を聞いてみよう
出枡形からの大阪城天守閣です。

天守閣までもう少し。

頑張れ自分、上様(豊臣秀頼公)がいる天守閣までもう少しだ。


山里口出枡形
本丸と山里丸とを結ぶ通路に設けられた枡形で、徳川幕府が行った大坂城再築工事によって築かれた。
外敵に備えるための石組みに囲まれた四角い区画枡形といい、特にこの場所は本丸から山里丸側に突き出していることから出枡形という。
南には本丸に通じる姫門、東には山里丸に通じる山里門があったが、いずれも明治維新の大火により、石垣上の塀ともども焼失したと考えられる。
なお西は埋門となっていて隠し曲輪へと通じている。




過去の記憶を聞いてみよう
こちらが出枡形から続いている隠し曲輪です。

戦争とかしたときはここに兵士を隠して、敵が通過した時後ろから奇襲をかけ相手を本丸側とこことの兵士で挟み撃ちにするんでしょうね。



過去の記憶を聞いてみよう
こちらは隠し曲輪からみた西内堀です。

こういうところに立っていると守備側として見る様子とかを想像したくなりますね。


隠し曲輪
大坂城の本丸に唯一築かれた帯曲輪で、江戸時代による大阪城再築時のものである。
出入口が狭くて気付かれにくく、兵士を隠す場所だったことから、一般に「隠し曲輪」と呼ばれた。
一時期幕府の煙硝蔵(火薬庫)が置かれたこともあり、立ち入りが厳しく制限されたことから、ここに秘密の抜け穴があるとの伝説も生まれた。
なおここでは、石垣の築造を担当した加藤家(伊代大洲藩)、小出家(丹波園部藩・但馬出石藩)の刻印を間近に見ることができる。





せっかくなので1月ということもあり、まだ行ってはいなかった初詣にも行ってきました。
大阪城の南部に豊國神社があります。
ここは豊臣秀吉公、豊臣秀頼公、秀吉の弟豊臣秀長卿を主祭神として祀られています。
日本では秀吉は農民から武士の頂点にまで上り詰めたことから、日の本一の出世頭という事でここは出世の神として崇められています。



過去の記憶を聞いてみよう

豊國神社に建っている豊臣秀吉公の銅像です。

ただ、暗くて(?)顔をよく見ることができなかったです(;^_^A

多分小田原討伐時とかの秀吉公なのでしょうね。

若くはなかった(笑)

ちなみに韓国とかでは秀吉は結構嫌われてはいますよね(文禄・慶長の役で残虐なことを命じたために)。

秀吉が何を命じたのかは文献などで調べてみてください(特に慶長の役)。




過去の記憶を聞いてみよう

大鳥居とその奥に見えるのが本殿です。

ここを通って参拝に向かいます。



過去の記憶を聞いてみよう
おみくじも引いてみました。

引いてみたら小吉だって(笑)

今まで凶とか大凶しか引いたことがない自分(;^_^A

まさに奇跡だ。


『あけくれに 折れどたらぬ 道なれど

神にちかひの こころつくせよ』


ふむふむ…

信じるものは救われる?

はい、信じます(o^-')b



長くなりすぎたので今回はここまでにしておきます。

よろしければお願いします。


ペタしてね


読者登録してね