昨日は朝から大阪へ出陣していました。
ブログでも紹介していた通り、慶長19年は大坂冬の陣(こちら
参照)が起こっていたいました。
また、1615年1月3日(慶長20年12月4日)は大坂冬の陣でも最大の戦いと言われる真田丸・城南攻防戦が行われていたということで、現在の真田丸跡地に行くというのも実はその目的でした。
真田丸は現在の天王町周辺だと言われています。
上の地図の衛星写真です。
建物が密集しています。
現在では真田丸自体は当然残されてはいませんが、ここにあったと言うのは残されています。
それが玉造駅近くにある『心眼寺』と『三光神社』です。
心眼寺は真田丸が出丸城跡碑が門に置かれています。
真ん中に見えるのが出丸城跡碑です。
また、この寺は大阪夏の陣で真田幸村様と嫡男真田大介(真田幸昌)様を弔うために建てられてた寺として有名です。
そして門には真田家の家紋六銭紋があります。
もう一つ近場で真田にゆかりがある三光神社ですが、こちらは真田幸村様の銅像と大坂城へ通じる抜け穴があることで有名です。
ただこの抜け穴には異説として、家康が地下から攻め込むために掘った穴とも言われています(穴の中が左側(南側)へと伸びているため、そこから侵入し、爆破するという流言工作に使われたとも)。
この穴についての真意は今となっては謎に包まれてしまっていますが、ここら辺には真田丸があり、さらにここで幸村様が徳川の大軍を引きつけ、散々に打ち負かしたことは紛れもない事実かもしれません。
入口を進んでいくと幸村様の銅像と左側には抜け穴の跡があります。
勇ましいです、かっこいいです、しびれてしまいます。
今日は遅ればせながら徳川軍と戦うために馳せ参じましてございます。
ちょっと傾いたのが残念ですが、かっこよさはきっと伝わってもらえるかと思います。
後ろに砲台もあるので、きっとこの時の幸村様は押し寄せる徳川軍に向かって『打て~~~!!』とおっしゃっているところなのでしょうね。
幸村様の威厳が伝わってこられます。
戦争中写真など撮ってしまって申し訳ありません。
敏勝作と書いてあるのでこの銅像は敏勝さんが作ったのでしょうかね。
かっこよく作っていただきありがとうございます。
もちろん写メも撮影し、携帯でもちゃんと保存しております。
入口は厳重に封鎖されていて入ることはできませんでしたが、柵には六文銭があります。
青く光っているところはペンライトです(;^_^A
ペンライトがあるところから左(南側)へと続いています。
ちなみにそっちの方にはお墓?がありました。
今ではたぶん途中で道が塞がっているんでしょうね。
大阪巡りはまだまだ続きます。
続きは後ほど時間があるときに上げておきます。
よろしければお願いします。