1614年12月19日(慶長19年11月19日)は豊臣家と徳川家が激突をした大坂の陣(大阪の役または大坂冬の陣・夏の陣とも言います)の開戦となった木津川口の戦いが起こった日にあたります。
大坂の陣は徳川家康が徳川幕府安泰を計り、最後の対抗勢力となった豊臣家に2回戦争を仕掛けこれを滅ぼし、江戸幕府の礎を確率させていくことになります。



大坂の役は遡ること豊臣秀吉の死に遡りますが、秀吉は五大老(当時は徳川家康・前田利家上杉景勝毛利輝元宇喜多秀家の五人)に秀頼を盛り立てて豊臣家を守ってくれと遺言を残し、慶長3年8月18日(1598年9月18日)伏見城にて亡くなります。
翌年には利家が亡くなり、五大老の中でも一番の力をつけていた家康が、秀吉が生きていた当時の約束を次々と破っていき(婚姻関係を他大名と結ぶなど)、この行為に不満を持っていった五奉行の一人石田三成が家康に戦争を仕掛け、敗れてしまいます(関ヶ原の戦いこちらこちら 参照)。


この戦いで反徳川勢力を一掃した家康は、慶長8年2月12日(1603年3月24日)伏見城で征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開きます。
豊臣秀頼の母淀君は豊臣家の家臣の家康は後に征夷大将軍の地位を秀頼が引き継ぐことができると思い込んでいた矢先の慶長10年4月16日、将軍職を3男徳川秀忠に譲り、家康は大御所として駿府城に移ってしまいます。
これは征夷大将軍は徳川家が代々務めていくという世間への意思表示を表しています。
しかし、秀頼もすくすく成長していき、官位も重ねて行っていたため、無視することができない存在でした。


そんな中、家康は二条城で秀頼と会見を開き、秀頼の成長を確認しようと考え、秀頼に上洛をするよう要請します。
家康のもとに上洛をするということは、事実上家康の部下となることを意味し、淀君は大激怒しますが、豊臣恩顧の武将加藤清正浅野幸長らが説得をし、この会見は実現することになります。
これにより、両家の間では平和を維持できると考えられていましたが、この時家康は豊臣家を滅ぼさなければ徳川家に安泰はないと考えます。
それというのも家康は、関ヶ原の戦い以後秀頼と会見を開いていなかったため、想像していたよりもたくましく成長していたからだと言われています。



大阪城には大量に金銀が蓄えられていたため、そのお金を使わせるために地震で崩壊してしまった方広寺大仏殿の改築工事をするように促します。
方広寺は秀吉開基の寺という事で喜んでこれを受けます。


また、豊臣恩顧の武将達も当時40代と若く、対する家康は60を超えていた高齢だったため、普通に考えると家康の方が先に死んでしまい、豊臣家に一気にとって食われると考えました。
そこで家康は長生きのためにありとあらゆる努力をしていきます。
鷹狩りをして体を鍛えたり、自分自身で薬を調合するというほどの健康オタクだったというのは有名です。
その甲斐があり、浅野長政加藤清正池田輝政浅野幸長豊臣恩顧の武将は次々とこの世を去り、慶長19年(1614年)には前田利家の跡を継いでいた前田利長も亡くなり、豊臣家は一層孤立をしていきます。



そんな中両家の対立を決定的にした出来事が起こります。
後の『方広寺鐘銘事件』と呼ばれ、鐘銘に刻まれた『国家安康』『君臣豊楽』という文字にいちゃもんをつけ出します(こちら 参照)。
これに弁明するため、豊臣家は片桐且元を駿府に派遣しますが、家康は会見をせず、後に大野治長の母大蔵卿局が駿府に派遣され、家康は丁重にもてなします。
そして、且元も家康と会見を許され、豊臣家と徳川家との戦争をなんとか回避させようとし、豊臣家に理由は定かではありませんが、


・秀頼の駿府と江戸への参勤。

・淀君を江戸詰め(人質)に出す。

・秀頼が大坂城を出て伊勢に移る。


の3個を持って帰ります。
しかし、これは淀君などの大坂方の怒りを買うことになり、且元は豊臣家から家康への内通を疑われ、暗殺されそうになりますが、それをいち早く察知し、家康の元へ走ることになります。
且元は豊臣家の家臣であると同時に、(関ヶ原の戦い以後)徳川家の家臣でもあったため、自分の家臣を暗殺しようとした豊臣家に反逆心ありとし、とうとう宣戦布告をします。
これにより大阪の役は豊臣家恩顧の武将の努力の甲斐なく起こってしまいます。


大坂方には関ヶ原の戦いでの敗軍の将などが主に集まり、その中で名だたる武将としては、徳川軍を2度にわたり撃退した真田昌幸の次男真田幸村(本名信繁)、元東軍で主君黒田長政と対立し出奔した後藤又兵衛基次、元土佐の大名だった長宗我部盛親、同じく西軍に属し伏見城の戦いで功績を挙げた毛利勝永宇喜多秀家の家臣で先陣を務め善戦した明石全登などがいます。
また、この五人を元大名や武勇が高かったため、大阪五人衆と言われています。




慶長19年11月19日未明、徳川軍の蜂須賀至鎮は木津川口攻略の許可を取り、浅野長晟池田忠雄と協力して攻略するように言われていましたが、手柄に欲が出て至鎮は単独攻撃を行います。
当時木津川口砦は大阪五人衆の一人明石全登が守備していましたが、この時大阪城に趣いていたため不在だったため、守備兵は統制が取れず砦は陥落してしまいます。
戦いに遅れて(とは言っても定刻の時刻通り)進軍していた長晟は、途中蜂須賀勢の抜けがけを知り、河川を急いで渡ろうとしますが、多数の溺死者を出してしまい、戦闘にも間に合わず苦汁を飲むことになります。
こうして大坂の役はこの後も各地で両軍が激突していくことになって行きます。



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