先日鎌倉に行ってきたのでそれについてちょこっとずつ載せていこうかと思います。

まずは妙本寺からです。



妙 本 寺
宗派 日蓮宗
山号寺号 長興山妙本寺
建立 文応1年(1260年)
開山 日蓮聖人
開基 比企大学三郎能本


過去の記憶を聞いてみよう


妙本寺の入口で、ここから入っていきます。

が、車両が通れるように門の両サイドが通路になっているので門をくぐらなくても中には入れます(;^_^A



過去の記憶を聞いてみよう



過去の記憶を聞いてみよう
祖師堂と総門のところに立っている日蓮上人像です。


入口近くの案内板より


『この寺一帯の谷を比企谷といい源頼朝の重臣・比企能員らの屋敷がありました。
比企一族は二代将軍・頼家の後継者争いの際、北条氏を中心とした軍勢にその地で滅ぼされました(比企の乱)。
その後、乱から逃れていた末子能本が、日蓮聖人に帰依し、一族の屋敷跡であるこの地に法華堂を建てました。
これが妙本寺の始まりと言われています。
四月から八月にかけて、桜・カイドウ・シャガ・ノウゼンカズラなどが鮮やかな花をつけ、静かな境内を彩ります。』


比企の乱(比企能員の変)
比企の乱は建応3年(1203年)9月2日鎌倉幕府内部で起こった政変で、2代将軍源頼家の外戚として権勢を握った比企能員とその一族が、北条時政の謀略によって滅ぼされた。
この乱の後、頼家は北条氏によって将軍の座から逐われ、まもなく暗殺されてしまいます(元久元年(1204年)7月18日)。


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比企一族の墓


竹御所
竹御所(建仁2年(1202年)から天福2年7月27日(1234年8月23日))は鎌倉幕府第二代将軍源頼家の娘です。
比企能員の変の後、頼家が北条氏によって将軍職を逐われ、まもなく暗殺されてしまいます。
その後も頼家の子が幕府の政争の中で次々と非業の死を遂げていくことになりますが、北条政子の庇護のもとにあり、女子であった竹御所はそれに巻き込まれることを免れ、政子の死後その実質的な後継者となります。
そのため、源頼朝の血筋を引く生き残りである竹御所は幕府の権威の象徴として御家人の尊敬を集め、彼らをまとめる役目を果たしました。


過去の記憶を聞いてみよう
竹御所の墓で妙本寺の奥の方にある墓地の一番奥にあります。


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妙本寺祖師堂が階段を上がって行ったところにあります。