1941年12月8日は『第二次世界大戦』中において日本がアメリカ領のハワイ真珠湾攻撃を行った日です。
また、同日日本軍はマレー半島にも攻撃を行い、この日第二次世界大戦はヨーロッパ・北アフリカから、アジア・太平洋にまで及び、文字通り地球規模の大戦争にまで発展していきます。
また、この攻撃を『太平洋戦争』または『大東亜戦争』と呼び、1945年8月15日の日本軍がポツダム宣言受入こちら 参照)まで続きます。




オアフ島真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年に設置され、それ以降日本海軍にとっては驚異的な存在になっていきます。
そのため、日本は真珠湾を攻撃する機会を伺います。
そして第二次世界大戦中の1941年1月、山本五十六は第11航空艦隊参謀長大西瀧治郎少将に真珠湾航空攻撃計画の作戦立案を依頼します。
1941年9月、アメリカやイギリスとの関係悪化を受け、日本軍は南方作戦(太平洋諸島攻略作戦)を具体化させていきます。
南方作戦の目標は蘭印(オランダ領東インド…今のインドネシア)の石油資源の獲得(日本国内および周辺では石油をたくさん取れないため)することでしたが、制海権確保のためにはアメリカ太平洋艦隊の戦力削減が必要でした。
当初これを実現させるための作戦を山本は提案していましたが、軍令部から大反対を受けます。
それは日本海軍の持つ正規空母(4隻)をすべてハワイ作戦に投入するため、南方作戦が手薄になってしまう上に万が一失敗した場合、最悪正規空母4隻は全て失われ、制空権・制海権を完全に失う事にもなりかねません。
これについての議論は続き、日に日に激しくなっていき、真珠湾攻撃中止されるところまで行きそうになります。
しかし、連合艦隊参謀黒島亀人大佐は、


『この作戦が認められなければ、山本長官は連合艦隊司令長官を辞職すると仰っている。』


と軍令部次長伊藤整一中将に言い放ち、これに驚いた軍令部総長永野修身大将は渋々真珠湾攻撃を認めました。

こうして決定された真珠湾攻撃は1941年11月の会議で開戦予定日を12月8日として真珠湾攻撃を含む対米英蘭(アメリカ、イギリス、オランダ)戦争の準備を本格化し訓練も行われていきます。
さて、日本から真珠湾へ向かう航路ですが、考えられた航路は2ルートあり、太平洋を横断していくか、北方航路を通っていくかですが、この攻撃は奇襲を目的としたものでしたので、困難な北方航路が採用されます。
そして、12月1日の御前会議で、アメリカへの宣戦布告を真珠湾攻撃の30分以上前に行うことも決定されます。




そして日本時間12月8日午前1時30分、ハワイ近海に接近した日本海軍機動部隊から第一波空中攻撃隊が進軍し、午前2時45分に第二波空中攻撃隊が進軍していきます。
また、この時陸軍はイギリス領マレー半島で奇襲上陸作戦を同時進行で行っています。
ただ、この奇襲攻撃は真珠湾とマレー半島攻撃を同時に行わなければならなかったのですが、真珠湾攻撃は予定より2時間遅れてしまいます。
午前2時40分アメリカ海軍の駆逐艦DD-139『ワード(ウォード)』がアメリカ領海内において国籍不明の潜水艦を発見し、砲撃によりこれを撃沈ました(ワード号事件)。
撃沈した船は日本軍の特殊潜航艇で、ワード号は砲撃直後に『未認識の潜水艦』を撃沈した事を司令部に電信で送っていたのですが、当時ハワイ周辺海域では漁船を誤射することがしばしばあったことから、この未認識の潜水艦にあまり注意を払わなかったため、日本軍の奇襲攻撃を察知する機会を失ってしまいます。
3時19分第一波空中攻撃隊が真珠湾上空に到達し、突撃命令を送ります。
そして突撃に成功し、突撃隊総指揮官淵田美津雄は電信で『トラ・トラ・トラ』と送ったことは有名です。
ちなみに『トラ・トラ・トラ』は『ワレ奇襲ニ成功セリ』を意味し、また、聖徳太子物部守屋討伐の勝利祈願をした際、の年・の日・の刻に毘沙門天が聖徳太子の前に現れ、勝利したという伝説にちなんでこのように送ったと言われています。
3時25分にはフォード島への爆撃を開始します。
3時28分アメリカ海軍の航空隊が『真珠湾は攻撃された。これは演習ではない』と警報を出しています。
しかし、いきなりの奇襲だったため、アメリカ軍はなかなか戦闘準備が整わず、甚大な被害を受けることになります。




そんな中、日本はアメリカに対し、真珠湾攻撃の30分前に宣戦布告を済ませているはずでしたが、真珠湾攻撃が行われた時はまだ宣戦布告が終わっていませんでした。
それというのもワシントンD.C.日本大使館にいた外交官が翻訳やタイピングに手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡されたのが攻撃開始の約1時間後に届きます。
そのため、『真珠湾攻撃は日本軍の騙し討である』とアメリカ政府は国内に広め、対日運動を起こしていきます。
ちなみに1939年9月1日のドイツとソビエト連邦によるポーランド侵攻こちら 参照)は、宣戦布告すらされていなかったにもかかわらず、ここまでは言われることはありませんでした。
なお、アメリカは第二次世界大戦後に参戦している朝鮮戦争(1950年6月25日~1953年7月27日)、ベトナム戦争(1960年12月~1975年4月30日)、グレナダ侵攻(1983年10月25日~12月15日)、パナマ侵攻(1989年12月20日~1990年1月31日)などの冷戦や、湾岸戦争(1990年8月2日~1991年2月28日)などいずれの戦争においても宣戦布告を行っていません。
また、真珠湾攻撃よりも先に開始されたマレー作戦では、イギリスは宣戦布告がないことを問題にしていません。




4時24分第二波空中攻撃隊が全軍突撃命令を下しましたが、最初の奇襲から時間が経っていたため、アメリカ軍はこれに猛烈な反撃を行い、日本軍も多くの被害を受けますが、一応奇襲成功をします。
8時30分頃には出撃していた空中攻撃隊は順次帰投し、9時頃空母の進路を北北西に進路を変え日本への帰路につくます。
実はこの時、石油タンクや修理施設などの港湾施設を徹底的に破壊するための第三波攻撃を行う計画も立ててはいましたが、これについては大した戦果を上げることはできないだろうと考え中止します。
また、空中攻撃隊とは別に特殊潜航艇(甲標的)を搭載した伊号潜水艦5隻も真珠湾に向かわせ全艇湾内に潜入することに成功しますが、4隻が撃沈・1隻が浅瀬に乗り上げ動けなくなってしまい、帰還艇なしという結果に終わってしまいます。
そして甲標的に乗っていた岩佐直治横山正治古野繁実広尾彰佐々木直吉横山薫範上田定片山義雄稲垣清の9人が『特別攻撃隊の偉勳』として軍神と表彰されました(九軍神)。





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